2025年04月25日
北アルプスてんぼうの道




安曇野池田美術館から駅まで歩いて大町まで鉄道に乗る。
朝の大町駅前で昭和の感じの良い喫茶店でトーストとコーヒーを頂く。ついでに年配のママさんから元気を頂く。
そこから北アルプスを横目に山麓の道を延々と歩く。
大町駅には立山へ向かう人の群れがあったがこの道は誰もいない。
道祖神や神社や古い農家や景色が良さそうな新しい家が並ぶ。
桜や花桃、チューリップ、芝桜、沢山の花が庭先を飾っている。
それほどの傾斜はないが疲れた。
温泉旅館の風呂と食事が一層身体に沁みる。
2025年04月23日
吉田塾が1000円である理由

この地でこの仕事を始めて25年を超えるが初めの頃は素人の私がとても高い料金を取っていた。
その事への申し訳なさが今の1000円となっている。
家庭教師派遣業者に登録していたので単価はもちろん1回の時間や回数も私が決めたものではなかった。
中学2年生に2時間を週に2回指導も普通だった。
1ヶ月の支払いは現在の10倍を遥かに超えた。
時間単価に直せば数倍程度だが、無駄に多い回数で負担を増やしていた。
勉強へのヤル気や体力さえもまだない様な子がそれほど沢山やればむしろマイナスになる。
家庭教師が嫌になり、勉強へのヤル気がなくなる。
沢山のお金を払って沢山の回数をこなす事がとても辛かったと数年後に聞かされた。
今でも同じ状況が行われている。
マンツーマンでしっかりと教えてもらえば成績が上がるということは普通の中学生にはあり得ない。
ある程度の人数がいて、競ったり、息が抜けたりして、プレッシャーが少ない方が良い結果が出る。
どちらも経験した私が言うので間違いない。
その時に高い料金を払ってくれた人にお詫びをすることも出来ないので地域の後輩の皆さんにお返しをしたい。
減らして減らして、今は1ヶ月4000円でOKだ。
「必要だが軽い目に」が2年生までの人には良い。
学校生活が大変な中で学習塾はそのくらいが良い。
この辺りでもまだ1ヶ月に50000円以上も払っているケースがある。
お金が大変じゃないですか?
これから先もまだまだお金が必要です。
素人の先生に高い料金を支払う人を1人でもなくそうと思って1000円にしている。
「塾には行かない」と言う人はそれで良い。
素人に高い料金を払って、かつ成績が伸び悩んでいる人はいませんか。
話しをしたからといって無理やり吉田塾に入れたりはしませんので、私と喋りましょう。
そういう人とこそ話しをしたいのでラインでのやり取りでも、電話でも、直接会ってでも構いません。
駒ヶ根吉田塾で検索してそこから私に辿り着いてください。
「学習塾は必要だが軽い目が良い」です。
高校受験が近くなれば一気に頑張れる余力を残しておきましょう。
お子さんの気力もご家庭のおサイフも。
2025年04月21日
サムライロード

木曽の馬籠と妻籠の間の旧中山道を歩くのが外国人に人気だ。外国人向けのガイドブックにサムライロードと載っているらしい。
10年くらい前までは歩いていても一組の外国人に会うかどうかといった程度だったが昨日は日本人が数組で外国人率は90%を超えていた様に思う。
南木曽の駐車場に車を止めて駅に行くと数組の外国人がいた。日本人は一組。各駅停車に乗るとほぼ外国人で座る席がないほどだった。
前に座る人に話しかけた。
マレーシアからの70歳でサムライロードを歩くと話してくれた。10人のグループで来ていて1週間の日本滞在だそうだ。
鉄道とバスを使うので私とは下りる駅は違う。
私が下りた駅からでは距離が長く高低差があり少しキツイためかこれまでに歩く様な人を見かけた事はない。
馬籠までは上りがキツく車道もあってそれほど良い道ではない。
馬籠はすごく沢山の人がいた。
ほとんどが普通の観光客で日本人も多い。
石畳の急な坂をスーツケースを押して上る外国人もいた。
リュックサックを背負った人はほとんどいない。
馬籠を過ぎると一気に人は減る。
ここからは外国人率が90%で、どの人もしっかりと歩く準備が出来ている。
この馬籠と妻籠の間は石畳の上り坂となだらかな林間の遊歩道の様な道だ。
熊よけの鐘がアチコチにある。
トイレや休憩所も多い。
馬籠と妻籠の間だけなら10㌔くらいなので歩くにはちょうど良い。
外国人は若い人が多い。
若い頃に外国に住んでいたがこの様なハイキングをしようとは思わなかった。
複数の男女のグループで歩く外国人もいる。
日本人はそんなグループで旅をするだろうか。
妻籠近くで高齢の日本人ハイキンググループを抜かした。
どこかのツアーの様だが黙々と速足で歩く。
お喋りを楽しみのんびり歩くという感じではない。
外国人は常にお喋りをして歩いている。
「こんにちは」と挨拶をして来る外国人も多い。
日本人はただ黙々とゴールを目指す。
妻籠の街はまた観光客が沢山だった。
馬籠と比べるとやや少ないのは食べ歩きの店が少ないからだろうと思った。
妻籠から南木曽の間はまた誰もいない。
対向して来る外国人女性が1人いただけだ。
馬籠から妻籠がサムライロードで、その前後の旧中山道はそう呼ばれていないためかも知れない。
あのマレーシア人グループは馬籠から妻籠を過ぎて南木曽まで歩くと話していた。
奥さんは膝が痛くて長い距離をあるくのはイヤだと話していたからきっと文句を言っている。
南木曽では小さな五平餅屋さんで食べさせて貰ったが、沢山歩いた後のご褒美の様でとても美味かった。
2025年04月19日
自分を保つ為に歩く

『チラシを配りながら歩こう』
いや
『歩きながらチラシを配ろう』
と思った。
歩くのがメインでついでに塾のチラシを配ろうということだ。
たいして家のない地域をのんびりと歩いた。
数年前に93歳くらいで亡くなった知人の家が気になったので近くを通った。
誰もいないはずの家の庭がキレイに片付いていて、見知らぬ人車が止まっている。
『気になるな』
子どもはいないはずだ。
家の周りを一周した。
トラクターを押して人が出て来た。
軽く会釈してやり過ごして、すぐにUターンして後をつけた。
トラクターはゆっくりなのでゆっくり歩いた。
『俺ってめっちゃ妖しくない?』
仕方なく追い抜かして声をかけた。
「この家の知り合いの方ですか?」
怪訝な顔をされた。
「私は散歩中で◯◯さんとはこういう知り合いで、」
と話した。
その方は甥に当たる方で片付けや庭の維持に来ているらしい。
「お時間があれば会っていって頂けませんか?」
そう言われて何年かぶりに知人の家に入った。
とてもキレイに片付けられていた。
老夫婦の住まいだったので足の踏み場もないくらいだったのが「売却物件」の様に片付いている。
「トラックで4回も荷物を運び出しました。」
「庭の竹は業者に切って貰ったんです。」
お線香を上げさせて頂いた後でお茶を貰いながらそんな話しをしてくれた。
その知人は大阪に丁稚に行き、戦争で満州に行き、戦後はシベリア抑留を強いられた。
その話しを聞いていたがその内容を詳しく教えてくれた。
亡くなった知人も喜んでくれているだろう。
「施設の奥様にも宜しくお伝えください」と話した。
この奥様は戦後間もない頃から駒ヶ根市役所で働き、ずっと教員をしていたそうだ。
知人も医療の仕事でお二人とも先生と呼ばれるお仕事だった。
それなのに私の事を「吉田先生」と呼ぶ。
「先生なんて、やめてください。」
私からすれば親というよりも祖父母に近いお二人の先生から「先生」と呼ばれるのは居心地が悪かった。
そんな話しもして初対面の人と随分と話しが盛り上がった。
「先生」なんて呼ばれる人種はろくなヤツがいないと思っていた。
私は職業は「先生」だが、エライ「先生」ではないと常に自覚している。
しかし自営業を長くやっていて、生徒集めにもさほどの苦労をしなくて良いくらいの経験を積んでしまったので、すぐに自分を見失って「エライ先生」になったかの様な横着な気持ちになる。
歩いて辛い想いをして、新鮮な発見をして、知らない人と喋ることで、「先生」ではなくて「吉田」だと自覚出来る。
2025年04月18日
吉田塾の限界

私の塾は随分と形態を変えて進化して来たと思う。
その過程で置き去りにしたものもある。
駒ヶ根の教室に決められた曜日と時間に来てくれる中学生しか教えられないという事だ。
それ以外は置き去りにしている。
小学生から高校生まで教えていた時期があった。
早い時間帯は小学生、次は中学生、遅い時間帯は高校生、と分ければ対応出来る。
「そんなん、イヤやわ、疲れる」
不登校の生徒を明るい時間帯に教えていた時期があった。
「不登校でも良いから他の人と一緒に塾でやって」
面接を大の得意としていた時期があった。
大学や専門学校、就職の面接もした。
他の人よりも少し多い人生経験からの引き出しと情熱を植え付けた。
「こっちも沢山喋るから喉が痛くなって辛い」
それらを置き去りにする事で沢山の人を教える事が出来ているのでこれも進化だと思う。
皆さんの方も歩み寄ってくれて何とか吉田塾に来てください。
2025年04月16日
なぜ学習塾に行くのか?----そこに学習塾があるからだ

今年もまた新しい生徒からの申込みが入って来た。
『どんな話しをしようか』と面談の内容を考えている。
「なぜ塾に来るの?」と尋ねると、
「成績を良くしたいから」と答える人が多い。
成績なんて大して良くならない。
幼い頃からの積み重ねと学校や家での過ごし方があった上で今の成績がある。
塾に来たからといってもそこが大きく変わるものではない。
塾を卒業する時の皆さんの声を聞いてみる。
「塾に来て頑張ることが出来た」と言ってくれる人が多い。
確かにそれは言えている。
塾に行かなくても成績が良い人は良い。
最近は私の塾に来れば成績が上がるといった誤った情報で問い合わせて来る人もいるが、そんな他力本願な考えでは良くならない。
そもそも大して良くならない。
楽しく頑張る中での充実感があって少しだけ大人になる人が多い。
ピアノとか、野球とか、書道とか、習い事は色々あるが、私の学習塾に限って言えばそれらの習い事と似ていると思う。
そこに通って得たこともさることながら習うことそのものが成長に繋がる。
受験生で『勉強しなくては、』と思っている所にたまたま吉田塾があって『成績が上がるかな』と思って入ってみたら『楽しかった』と言う人が多い。
それでええんちゃうか。
2025年04月11日
貿易摩擦

日本は自動車を製造して売る加工貿易をすることで、大きな利益を得てきました。 原料を輸入し、そこから材料を作り、製品に加工して輸出する貿易を「加工貿易」とよびます。
子どもの頃にこう習ったが、日本が大きな利益を得るのであればどこかの国が大きな利益を失っているのではないかと思った。
アメリカの人たちが日本の自動車をハンマーで叩き潰している映像をテレビで見たがかなりショッキングだった。
誰かが一生懸命作った自動車なのにかわいそうだと思った。
それが「貿易摩擦」らしい。小型車が欲しくなったアメリカの人にアメリカの車が届く前に日本から買ってしまったのでアメリカで車を作る人が怒ったのだろう。
『買っているのはアメリカ人やろ?アメリカ人が日本の車がエエから買ってるんやろ?なんで車に八つ当たりするんや?』と思った。
『加工貿易なんて永遠には続かない。アメリカの人に喜ばれる車をアメリカ人が作ったら貿易摩擦はなくなる。日本は大きな利益を得られなくなる。』と思った。
社会人になり輸出入の仕事に就いた。
『中国のサトイモはどうしてこんなに安いのか?』
人件費が安かった。しかし日本がドンドン買いに行けばドンドン高くなる。沿岸沿いの地域で買っていたのが安い人件費を求めて内陸に買いに行く。
せっかく仲良くなって、日本向けの製品を揃える事を覚えて貰ったのにまた新しい人を探しに行く。
為替が変わればちょっとした努力ではカバー出来ないし、逆に大きな利益にもなる。
『世界で利益の奪い合いや』と思った。
アメリカの人は安くて品質の良い日本の車や中国の製品を買えなくなったらどうするのだろう。高くなったそれらを買うのか、それとも金額的に魅力が出て来たアメリカの製品を買うのか?いずれにせよアメリカの人が一番困るやろ。
今の日本人の豊かな生活は世界の人のお陰があるからだろう。もし貿易がなくなり鎖国になったら日本人はとても貧しくなるのと違うか?
アメリカ人は困らないのかな?
2025年04月10日
部活動はどうなるのか?

「あんなに頑張って勉強して、やっと高校に入ったと思ったら朝から夜中まで野球ばっかりなんです。夜中にストッキングを洗っていたら涙が出ます。息子をプロ野球に取られたみたいです。」
20年くらい前に地域の普通の公立高校に入って間もない息子がいるお母さんの嘆きだ。
「夏休みは2日しかなくて他は朝からずっと部活動です。」とも話していた。
この時期は新たに高校生になった人達が部活動を選択する。しかしかつての様な盛り上がりは感じない。
「あの部活動は女子は人数がいなくて活動停止なんです」
「あの学校はテニスが無いんです。」
「バイトしたいんです」
パットしない話しが多い。
中学は部活動の地域移行を進めようとしているのだから高校だって同じだろう。どの高校も人数が少なくなり、オマケに部活動に入らない人が増えている中でしっかりと部活動が出来る事が当たり前ではなくなっている。
中学の先生が部活動が出来ないのなら高校の先生だって同じだろう。方やかつての生徒の様に高校生活の中で部活動は重要な存在だろうとも思う。
地域のクラブチームの活動が盛んなドイツを見ると「日本もこれがエエやん」と思った。
しかしそう簡単ではない。
山ほど沢山の問題がある。
『部活動ってなんやねん?』
学校の活動の一つだと思っていたがそうではないらしい。
強制的に全員が入るのが部活動だと思っていた。
問題提起をされたので改善すると良いのだが、今の生徒は今しかない。
2025年04月07日
貧しい同級生宅に朝刊を配る

大阪に住んでいた中学2年生で朝刊配達を始めた。
朝刊とは言えまだ暗い時間で配り終えた。
大阪とは言え郊外の田舎だった。
祖父母の家もある見知った地域だったが暗い時間はどこか恐ろしい雰囲気がした。
古い農家は大きな壁や塀、堀があり、道は細く入り組んで舗装は良くない。
私が苦手な家があったが、それが同級生の家だ。
同級生とは言え、保育園の頃の同級生で、小中は違う校区だったので知人ではない。
保育園の印象で、その同級生は大人しく、小柄で色白の痩せた男の子だった。
新聞は家のポストに入れるのが普通だった。
何軒かポストの無い家があったが、扉の隙間とか、玄関横の窓の鉄格子に挟むとか、玄関の箱の上に置くとか、前任者からの指示通りにやっていた。
「扉を開けて家の中に置く」というのが前任者から聞いたその家の配り方だった。
暗闇の中で扉を開けると明らかな人の気配がした。
ホタル電球の下には5人ほどの人間が寝ている。
玄関の薄い扉を開けるだけでその5人が寝ている部屋なのだ。
保育園の同級生、妹、両親、おじいちゃんもいる。
これで5人だがもしかするとおばあちゃんもいたかも知れない。
それだけの人が玄関を入ったすぐの部屋に寝ている。
もしかするとその家にはその部屋しかないのかも知れない。
扉を開けた時の人の匂いや熱を感じるのがイヤだった。
普段はそうしたら匂いや熱など気にもならないが未明の時間に小屋の様な小さな家で、寝ている人達からのものだと思うと不快だった。
寝息やいびきが聞こえる事もあった。
扉を開けたらそれらが急にしなくなる事もあった。
扉を開けて新聞を置くことにも注意を払った。
めんどくさいと思った。
朝刊配達は機械的にしたかった。
ポストや扉の隙間といった温もりの無い所にただ配るだけなので心の準備をしたり、気持ちを高めたりする必要はなかった。
その同級生の家だけが人を感じる家なので何か構えてから扉を開けないといけなかったのだ。たったそれだけのことがとても憂鬱だった。
祖母にその家の事を尋ねた事がある。
隣の家の四男だか五男だかが住むために建てたもので空いたから貸しているとの事だった。
住んでいる人の素性は知らないが、地元の人間ではなくて近所付き合いは無いらしい。
2025年04月06日
夜逃げ

小学生の頃、自宅のすぐ近くに資材置き場があった。
トタンの塀で囲まれた敷地に沢山の材木が立ててあった。
実家から100メートルほどしか離れておらず学校の行き来で毎日通る道沿いだったので様子はよく知っていた。
知らぬ間にクラスに1人の女の子がいた。
地味な子でほとんど誰とも喋らなかった。
いつ転校してきたのかも記憶にない。
勉強も運動も出来なくて影の薄い幽霊の様な存在だった。
服装はいつも手縫いの毛糸の薄汚れたものを着ていた。
私はその子の事は気にかける事はなかった。
クラスの新しい名簿を見て驚いた。
その子の家の住所が私の家と番地が僅かに違うだけだったのだ。学校帰りに番地を数えてみた。
『この資材置き場やろ?』と思った。
『こんな所に人が住んでるんか?』
周りをトタンの塀で囲まれているが以前からずっと資材置き場のままだった。
それ以来時々気にしてみたがやはり人の気配はなかった。
本人に直接聞けば良いのだがそれほどの関心もなかった。
しばらくすると担任が突然話した。
「このクラスから転校して行った人がいます。」
あの資材置き場の女の子だった。
結局一言も話しをしなかった。
クラスの中で話した人はほとんどいないだろう。
担任はどこへ行ったとも言わず、誰も担任に尋ねなかった。
本当にクラスに存在していたのかも疑わしい。
この世に存在していたのかさえ分からなくなった。
資材置き場の様子は何も変わっていない。
資材置き場には表札もないし、住所を書いたプレートもない。
しかし隣近所の住所のプレートの並びからしてやはりあの女の子の家はこの資材置き場だった。
人が住んでいれば物音はするし、夜は灯りが点くし、人の出入りもあるので気が付かないはずはない。
しかしその資材置き場は少し前もずっと前も、そして今も何も変わっていない。
仲間3人で資材置き場を探検することにした。
入口には太い鎖が掛けてあり大きな鍵が付いている。
しかし鎖の下から簡単に入る事が出来る。
ここまではずっと前から知っていた。
『資材置き場のどこに住むんや?』
これが一番知りたかった。
トタンの塀には板が立てかけられていた。
倉庫の様な所は壁がないが2階建てになっていた。
2階には壁がある。驚いた。
倉庫の階段を上って2階へ上るとプラスチックの箱やら太いコードやらホコリをかぶった様なよくわからないものが散乱していた。
隅っこには小屋がある。
扉には鍵がなかった。
中は暗かった。
『家や』と思った。
自分の家とはかなり違う。
私が知る誰の家とも違う。
汚くて貧しかった。
今の年齢になって説明するのなら農家の人が畑に作った作業小屋とか、登山の途中にある避難小屋の様な感じだ。
『ここに住んどったんや。』と確信した。
「あの資材置き場は誰々のもので、資材置き場はそのままで住む所だけを人に貸したら、そいつらが夜逃げしよったんや。」父に資材置き場の事を尋ねたらそう答えた。
「夜逃げしたんは同じクラスにおったヤツや」
そう言うと父は驚いた。
「子どもがおったヤツか」
町内会へ入れるとか入れんとかさえの話しもなかったらしい。
そもそも人が住む所ではないので父は夜逃げをしたと噂で聞いて初めてそこに人がいたと知ったそうだ。
そこに我が子のクラスメイトがいたと聞いて驚いていた。
2025年04月01日
新入社員の思い出

4月1日になると毎年の様に新入社員だった時のことを思い出す。
地方都市に本社があり180人以上の新入社員が集められた。私にとっては全員が初対面だ。
不安はなかった。
やれる自信があった。
各部に分かれての新人研修はなんと4月の終わりま1ヶ月もあった。
営業は80人あまりでその半数は6人ずつ分かれた借り上げたマンションを寮として生活を共にした。
私の同部屋のメンバーは楽しかった。
研修終わりには会社のバスで寮まで送ってくれたが途中でスーパーに立ち寄ってくれるので部屋でまとめて食材を購入して自炊をした。
奈良からの人と布団を並べて寝た。
夜遅くまで勉強して、私が怒るとすぐにやめて、寝息を立てて寝てしまうので、私はイライラして余計に寝られなかった。
工場に配属されるのは高卒男子が多くてヤンチャな車を唸らせて出社して来た。
総務は女子が多かった。
中でも広報課や秘書課の女子はレベルが高かった。
この部署の社員とお友達になることが我々営業マンの最初の目標だった。
秘書課には毎年1人たけ男子新入社員が配属され、社長の運転手を1年間続けるのだった。
この男子と友達になり地元採用のレベルが高い秘書課と広報課に地元を紹介してもらうという作戦はうまくいった。
毎日の研修の後で筆記試験があった。
周りの営業の新人は昼休みにも勉強をしていた。
その隙に私は裏工作をした。秘書課や広報課や総務課の女子社員と仲良くなった。
『これが営業の面白さや』と思った。営業か?
『彼女を作ろう』ということではない。
それでも楽しく研修を乗り切るにはこの方法だと思った。
何でもかんでも他人と違うことをしたかったので
周りの社員と違う存在でいたかった。
張り切っていたとも言える。
若かった。
2025年03月29日
高校入試本番で最高得点を取る

高校入試も終わり発表も終わり塾も明日で終わりだ。
「入試本番で3年生になってからの最高得点を取った人には旅行のお土産をあげるから教えてね」と告げたところ何人もが言ってきてお土産がなくなってしまった。
昨日、一昨日の勉強会に来た人だけなので来ていない人も合わせると受験した人の半数くらいが該当する勢いだ。
「よくがんばった!」
素晴らしい!
普段の学校のテストよりも100点も良かった人がいる。
3年生の悪い点数と比べると倍くらいの点数を取った人がいる。
でもな、全員じゃないんだよ。
まあまあなら良いけど良くない点数の人もいる。
『何でかな?』
3年生の学校のテストでも良かったり悪かったり、
過去問題集でもそうだ。
一言で言えば「まだまだ」ということになる。
良かった人もそれがそのまま実力ということではなくて「たまたま」と考える方が良い。
悪かった人はその「たまたま」が悪い方に出てしまった。
学校のテストも過去問題集も全部がいつも悪いのなら実力不足だが、良かった事もあるから「まだまだ」の実力で「たまたま」悪いのが出てしまった。
良かった人は「たまたま」良いのが出た。
これが中学生の怖いところだ。
これがいつも良いのが出れば本当の実力だ。
高校生はスタートダッシュが肝心だ。 最初のテストの順位がそのまましばらく継続する。
それはそうとして、良かった時は素直に喜ぼう!
2025年03月28日
中学生の成長

昨日は久しぶりに吉田塾があった。
「春休み宿題応援会」
新中学1年生から新高校1年生までの4つの学年が集まってくれた。
初めて来る人が何人かいて、この日が最後の人が何人かいる。
この年代で学年が3つ違うと大人と子どもの様な差がある。
高校入試を終えた人達はゆったりしている。
ホンネで言えばたるんでいる。
少し前は鍛え上げた学力と本番前の緊張感があったが、
あの時の様子にはもう一生ならないだろう。
やり遂げた満足感がすこしずつ寂しさにつながる人もいるだろう。
一方で新中学生1年生はまだチョコチョコしていてヒヨコの様だ。
私に対してもタメ口の子もいる。
放っておくと漢字練習帳をやる人もいる。
自分で考えて欲しいので厳しくとがめないが、
「お金を払って来てるので。ここでしか出来ない事をやろう」と何度も全員に対して言う。
3年生くらいになると塾で漢字練習帳をやる生徒はいなくなる。
「勉強の仕方」とよく言うが、マニュアルの様に説明出来るものでもなければ一度伝えたから出来るものでもない。
「丸付け」1つをとってもそうだ。
基本は1ページやれば丸付けをするのが良いが、
その1問が合っているのかどうかが気になれば1問で丸付けをしても良い。
「ノートの取り方」もそうだ。
1ページのノートを幾つに分けるのかを聞かれるが
「3つくらいで良いと思う」と提案はすれど、
中1の数学「正負の計算」の易しい問題ならそれでも良い。
一次関数の応用問題をやるのは2つに分けるくらいで良い。
つまり「勉強の仕方」を教えるということはその時々で考えて正しいやり方でやるということだ。
そのための提案や基本的な例は言うが強制はしない。
丸付けが面倒でやらない3年生がいた。
私が言ってもやらない。
昨日は伊那北高校に進学する2人が近くにいた。
「この人は丸付けをしないんだけど2人もしないか?」
と聞くと「します」と答えてくれた。
それを聞いていた3年生に「『後でまとめてやれば?』と2人に言うか?」と聞くと「それはさすがに出来ません」と答えてくれた。
「俺の言う事よりもこの人達の言う事を聞くんかい?」と3年生に言ってやった。
来年にはこの3年生が後輩に教える立場になっているだろう。
この2人の新高校1年生も少し前は丸付けなんてしなかった。
みんな成長する。
俺も頑張ろう!
2025年03月27日
地球が火星の様になる

子どもの頃に読んだSF小説に「地球の気候が火星の様になる」と書いてあった。
暑い日はとても暑く寒い日はとても寒くて我々は今の様に暮らす事が出来ないということだ。
外に出るにはイラストの様な防護服か宇宙服の様なものを着なくてはいけなくなる。
建物から地下を移動し他の建物へ行く。
そんな日が本当に来るのかも知れないと思う人が少しずつ増えているのではないか。
今日はどうしよう?
山登りやジョギング、ウォーキング、なんかしたら花粉か黄砂にやられる事間違いない。
紫外線も強力だし、風が強い日は歩くのさえ危険だ。
先週はまだ雪が降っていた。
都会の様な地下街をウォーキングするのがよい。
関門トンネルや信濃川河口トンネルは地元の人のウォーキングコースになっている。
でも密閉された空間はコロナやインフルエンザが心配なのでやはりマスクは必要だろう。
青空の下でのんびり過ごす事がとても贅沢なんだ。
地球は火星よりも厳しいのかも知れない。
2025年03月26日
「ワンランク下げた高校で上位を目指せ」はウソ

「ワンランク下げて上位を目指せ」は中学の先生が志望校の変更を促す為に使う常套文句だ。
これはウソだと言えるほどそうならない。
既に高校が決まった時期だがあえてこのことを書く。
高校は学力で輪切りをされて入学してくる。
よく似た成績の生徒が多くなる。
少し頑張れば上位に行けるが、少しサボると下位に落ちる。
中学よりも学ぶ量が多いので一度下位に落ちると元に戻すためには物凄く沢山の内容をやり直さなくてはいけない。
「入学して夏休みまでには伊那北の下位の30%は模試で弥生の上位30%に負ける」伊那北高校の先生がこう話した。
下位になるとヤル気がなくなり、『頑張ろう』とたまに思っても同レベルの生徒がコツコツとやっている中で復活するのは難しくやがてまたヤル気がなくなる。
「弥生は危ないから変えなさい」と言われたが何とか弥生に入り、上位の成績を維持して現役で国立大学の理系に入った人が複数人いる。
弥生を落ちて赤穂に入りその悔しさから頑張って上位の成績を取って夢を実現した人もいる。
「受験から自分は逃げた」と志望校を変更した事を悔やんで高校で頑張って夢を実現した人もいる。
結局は高校で頑張るかどうかが大事で入った時の成績が物凄く重要ということではない。
最初に上位に行くことが大事だ。
その高校の一番には必ず誰かがなれる。
中学の時の成績順位は幼い頃の成績が引き継がれるのでやってもやっても大きくは上がらない。
高校は同じ成績の人が多いので上がりやすい。
最初が肝心なので浮かれすぎずに頑張ってください。
2025年03月25日
私が旅行をする消極的な意味

無事駒ヶ根に戻って来ました。
最後の方は良い天気になってきたと思ったら花粉に黄砂に冒されています。
もしかするとPM2.5も混じっているのかも。
咳とくしゃみと目のショボショボにやられています。
7年くらい前からこの時期にまとめて旅行に行ってます。
旅行が楽しいから1年間頑張ったあとに旅行に行くというのが積極的な意味なら、もう一つの消極的な意味があります。
引退の準備をしているのです。
自分の子どもと遊ぶ為に駒ヶ根に移住しましたが
子どもがいなくなり、駒ヶ根にいる意味はなくなりました。
しかし私を師事してくれる多くの人がいます。
とても嬉しいです。
大きな生き甲斐です。
ずっとやっていたい気もあります。
かつては小学生から高校生まで教えていました。
不登校の人や養護学級の人も教えてきました。
どれも楽しくてやり甲斐がありました。
しかし手を広げると畳むのが大変になるというのは分かっていました。
人を雇うともっとやめられなくなります。
コンパクトにしておきたいという気持ちとやるなら沢山の人に喜んで欲しいという気持ちがあります。
その抑える気持ちを出すのが旅なんです。
休んでの旅に行かなければずっと継続して塾をやっていることになるのですが、そうなるとどんどんと大きくなってしまいます。
割と営業は得意でガンガン行くので、やり続けるとヤバくなります。自分の能力でカバーできなくなるのにも気が付かずに拡がってしまいます。
そして引退出来ないのでは?というストレスが増えていきます。
旅行に行くことでそのストレスであり恐怖から逃れています。
『辞めるタイミングは自分で決められる』と安心して仕事に臨むことが出来ます。
受験本番を前にして新たな生徒の春期講習のことも考えないといけない他の塾の様にやるのは私には無理です。
2025年03月24日
私はより一層おとなしくなります
山陰地方の山口、島根、鳥取は良かった。
兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

2025年03月23日
大山は凄かった

鳥取県の米子という街で大山が見えた。
想像していたよりもずっと立派で大きくて、まさに伯耆富士と呼ばれるだけのことはある。
標高は1700メートル少しなので長野県の山と比べると高くはない。
しかし独立峰なので富士山の如くとてもかっこいい。
『よし、あれを見に行こう』と思った。
山を登るのではなくてもっと近くで見ようと思ったのだ。
雪道で行けそうにないなら早めに戻れば良い。
大山寺というお寺まで行こうと計画した、
途中の道はずっと乾いたままだが、道の周りはドンドン雪が増えている。
『このまま行けるのか?』
と思ったら大山寺の駐車場に着いた。
駐車場はほぼ雪の壁に囲まれていた。
参道も雪の壁で進むにつれて壁は高くなり道は細くなってきた。
最後の階段はほぼ氷の道だ。
辿り着いた大山寺は衝撃だった。
本堂がほとんど見えない。

信州に住んでいてもこんなに凄いお寺は初めて見た。
このお寺の標高は駒ヶ根の高速道路くらいしかない。
それなのにこんなに積もるとは驚きしかない。
北西の強い季節風が海の水蒸気が雪になり、それを大山にぶつけるのだ。
本堂から駐車場までの階段は手すりをつかんで後ろ向きに下った。
2025年03月22日
バイパスを作ってください

中国地方の海沿いをグルリと車で走っている。
思ったよりもスムーズに走る事が出来る。
バイパスが整備されているのだ。
大都会の広島市でさえ無料のバイパスが高架で通っている。
小さな町がポツンとある山陰地域は高速道路を作ろうとしていて途切れ途切れなので無料区間が多い。
高架のバイパスは信号や踏切がなくて渋滞も少ない。
昔、バイクで広島バイパスを通ると捕まると言ったやつと旅先で会った事がある。原付ではなくてバイクだが、当時はアチコチで車は通れるがバイクは通れないというバイパスや高架道路があった。大阪の一般道でバイクに乗っていて渋滞に巻き込まれた事があった。トラックのすぐ後ろで止まったり進んだりを繰り返して高架道路を過ぎると取り締まりがあって捕まった。あんまりやろ。
長野県にはバイパスが少ない。松本は広島よりもヤバいかも。諏訪でさえも渋滞が激しい。
駒ヶ根はバイパスが出来て随分良くなった。
長野県もバイパスを作ってください。
日本中から、世界から人が来てドライブするのに長野県は最高じゃないですか。
渋滞さえなければ。
2025年03月21日
ゲゲゲで社会科を学ぶ

祖父母の家は大阪の農村部にあった。
村の中は寺を中心に沢山の家と何軒かの商店があった。
村を貫く道を歩くと家に代わって田畑が現れる。
村外れに来ると墓があり、森がある。
森の中には神社もあり、鬱蒼としている。
妖怪がいるのはこの辺りだ。
村へよそ者が入ってくることは一大事であり、
村社会を維持するには村人が出ていかないことも大事だ。
村の出入口を妖怪が守っているとも言える。
ゲゲゲは公害や自然破壊にも厳しい。
金儲けだけを考える人間を妖怪が懲らしめて、
その妖怪を鬼太郎は退治するが、
同時に人間もキツく諭す。
作者が戦争で片腕を失うなどの悲惨な体験をした事がゲゲゲの中にもでてくる。
戦争を経験した人と時代をともにしている今の子ども達にとって、歴史を学ぶことはもっと大切ではないだろうか。
ゲゲゲを読んだりテレビで見たことが学校で習った文字だけの社会科よりもずっと印象に残っている。
2025年03月20日
卒業した学校が廃校になるとイヤやな

旅をしているとこの時期は卒業式シーズンだと気がつく。
塾の皆さんも卒業式を終えただろう。
旅をしているといつも思うのは廃校が多いということだ。
『全く人の気配がないこの辺りにも学校があったということはさぞ賑やかだったのだろう』ということだ。
学校どころか子どもなんて1人も見かけない。
時々見かける年配の人はあの廃校の卒業生かも知れない。
卒業した学校が廃校になるとイヤだろうな。
自分の事を考えてみたが廃校にはなってないが随分と人は減っている。
大阪の40万都市でもそれなので多くの人は卒業した学校が廃校になる心配がある。
沢山の笑顔と涙があったはずなのに、、、
2025年03月19日
松下村塾と吉田塾との共通点

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎 など総理大臣2人を含む有名人を沢山輩出した塾が松下村塾だ。
吉田塾からはまだ総理大臣は出ていないので早く誰かになって欲しい。
それでは共通点は何か?
松下村塾は吉田松陰先生で
吉田塾は吉田耕司が先生です。
書いていて恐れ多すぎて寒気がした。
せっかく書いたからそのままにさせてください。
塾の広さは吉田塾の方が広いかも?
2025年03月18日
次男まであと僅か17㌔

「冬タイヤ装着」高速道路の表示を見て驚いた。
聞いたことのないインターチェンジの間と書いてある。
『どこやねん?』とビビりながら走った。
タイヤはもう夏のタイヤに換えた。
今朝広島ではほんの少しだが雪が舞った。
天気が悪いのでのんびり観光する気にもならずにビビりながら走った。
気が付くと九州に来ていた。
関門大橋を渡ったのだ。
ここで暗くなったので門司港近くの宿にした。
北九州には次男がいる。
ネットで調べるとあと僅か17㌔で次男がいるはずだ。
しかし雨で夜で小倉の大都会を運転する気がしない。
広島の大都会を抜け出して宮島の観光をした事もあり疲れた。
ラインで連絡をしたが駒ヶ根から連絡をするのと変わりはなかった。
2025年03月17日
27階の部屋から原爆ドームを見おろす罪悪感

ホテルの部屋は27階だ。
とても景色が良くて感動。
遠くに海が見える隣のイベント会場は元の広島市民球場だ。
そして原爆ドームが真下に見える。
爆心地はその隣で、平和記念公園があって資料館も見える。
写真の手前にある黒っぽいビルがおりづるタワーでその右が原爆ドームだ。
最高の立地にうっとりとする。
チェックインのあとで原爆ドーム、平和記念公園、平和記念資料館、を見た。
テレビで観るのとは違い実際にこの場所に起こった悲惨な状況に心が痛む。
自分の親世代の子ども達の姿は見るにキツイ。
部屋に戻るとそれらを上から見おろす。
『見下ろしても良いのだろうか』
と思う。
このホテルの場所でも亡くなった人が沢山いるだろう。
なんにも悪くないその人達が突然亡くなって、
なんにも偉くない自分が上からその場所を見下ろしている。
『これってあかんのちゃうか?』
だからと言って低いホテルに泊まるとか、他の場所に泊まるとかをしても意味はない。
白人を中心に物凄く沢山の外国人がいた。
『外国人だから、アメリカ人だから、日本人だから、とそれぞれで感じ方は違うものだろうか。』
夜遅くに雨が降っていた。
霧のようなものに煙った原爆ドームはずっと光が当てられていた。
『どんだけ辛かったことか』
2025年03月16日
海が目の前の宿


海が目の前の宿で朝を迎えました。
昨日からずっと雨です。
それでもそれはそれで雨音が心地よいです。
海まで5メートルくらいかな。
こんなに近くで泊まるのは初めてです。
昨夜は津波の被害を受けた方のドキュメンタリーをテレビで見たので怖い気持ちはありますがやっぱり海に憧れます。
瀬戸内海の小さな島にある宿です。
すぐそばに学校はありますが営業終了しています。
のどかな島です。
驚きは1泊素泊まりで1人3300円です。土曜日はどこの宿も高いのにたったの3300円です。
個室にはエアコンとテレビがあります。
キチンと掃除されています。
地図にあるように広島の呉市の沖合いにある島ですが橋で渡る事が出来ます。
元々は普通の民宿だった様でその厨房を自由に使えるので食材を持ち込むと良いです。
もう一度見てきます。
訂正です。海まで3メートルです。
潮が満ちてきた様でさっきまで見えていた石が隠れてしまいました。

2025年03月15日
放浪記

放浪記は林芙美子が書いた小説で広島県尾道を舞台にしたものだ。100年くらい前の事だが「しみじみと感じる」という私に欠けている感情を表現している。
"海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい"はその小説の有名なくだりだ。
私は学生の頃にバイク旅で尾道に来たことがある。大して観光地化されてもなくて坂の下はゴチャゴチャしていた。
船の重油の匂いと鉄工所の作業の音、そして狭い海峡を通る船のエンジン音がゴチャゴチャをさらにゴチャゴチャにしていた。
久しぶりの尾道は随分とスッキリしていた。
卒業旅行だろうか若者がオシャレに観光をしている。
しかし幾つかの観光スポットだけに現れる彼らには不思議な感覚がする。
昔と変わらないのはネコの多さだが、猫カフェやネコグッズなどの人為的なネコが増えた。
ネコ達も心なしかオシャレになった。
2025年03月14日
春は曙

大相撲の春場所をやっている。
楽しみが増えた。
実力が拮抗していて誰が勝つのか予想がつかない。
長野県の御嶽海もまだまだ頑張って欲しい。
大阪に住んでいた頃も大相撲は大人気だった。
貴乃花と若乃花が人気で曙や武蔵丸のハワイ出身横綱も強かった。
夕方の6時くらいに難波の体育館を通りがかった。
ちょうど終わった時間の様で大勢のお客が出てきた。
終わったところなのにすぐに列が出来始めた。
次の日の入場のための列だと知って驚いた。
『ずっとここに住んでるのか?』
と思った。
「春は曙」と言われていたのは春場所は曙が強かったからだ。
数年前に曙さんは亡くなった。
ドイツの三越で武蔵丸と買い物をしていた姿を見かけた事があるが茶目っ気があり、親しみもある人だった。
2025年03月13日
社会科見学 明石市市立天文科学館

日本の標準子午線はこの場所を通っている。
この写真の明石市市立天文科学館の玄関の脇の線がまさにそれだ。
東経135度の線だ。
イギリスのグリニッジ天文台を0度として地球を東西180度ずつに分ける。
360度を24時間で割ると15なので15度が1時間だ。
日本とイギリスでは9時間の時差だ。
中1でやりましたね。
その日本の標準子午線に行ってきました。
つまり遊びや観光ではなくて社会科見学です。
生徒のご家庭で経費をご負担頂けないでしょうか。
このあとも皆さんのための社会科見学は続きます。
2025年03月12日
私は入試問題を見ない

「全然出来ませんでした〜」
「結構出来たかも?」
「きっと大丈夫、でもヤバいかも?」
受験を終えた人は色んな感想を送ってくれる。
『みんな受かってると良いな〜』
『どんな問題立ったのかな?』
そう思うが今の時期に問題を見返す気力がない。
私が問題を見返すのは今の2年生がしっかり力を付けた冬休み辺りからだ。
その頃になるとヤケに気合いが入って解説を何枚も作ったりする。
25年くらい前か、この仕事を始めた頃には同業の先輩数人の勉強会に参加させて貰っていた。
高校入試の予想から始まり入試が終わると反省会が始まる。
新聞に載った入試問題を切り抜いてアレコレと話し合うのだ。
「今年の問題は難しかった」
「地学が出たが天文は出なかった。」
「国語の作文は量多くて準備が必要」
「吉田先生はどう思う?」
「イヤ〜。、普通ですかね?」
とごまかすしかない。
見てないのだから。
終わったら一旦離れてパァーッとしたい。
今年も美味しいものを腹一杯に食べてこんな景色を見ながらブログを書いています。
やる時はやるので大丈夫です。
2025年03月11日
人事を尽くして天命を待つ

やれる事をやり切って、あとは運に任せることだと私は理解している。
そうしようと心がけている。
努力が苦手な私だが心がけるとちょっとはがんばれるし、ちょっとはドキドキしない。
今日受験の人もやり切ったか?
ちょっとはやり残してるよね。
でもまあまあがんばったよね。
そしたらちょっとはドキドキしないんじゃないかな?
それで良いやん。
人間だもの。
最後は別の人の名言で締めました。