2025年04月01日
新入社員の思い出

4月1日になると毎年の様に新入社員だった時のことを思い出す。
本社がある地方都市に180人あまりの新入社員が集められた。私にとっては全員が初対面だ。
不安はなかった。
自信があった。
各部に分かれての新人研修はなんと4月の終わりまでだった。
営業は80人あまりで半数は6人ずつ分かれた借り上げたマンションを寮として使い生活をともにした。
私の同部屋は楽しかった。
研修終わりには会社のバスで送ってくれたが途中でスーパーに立ち寄ってくれるので部屋でまとめて食材を購入して自炊をした。
奈良からの人と布団を並べて寝た。
工場に配属されるのは高卒男子が多くてヤンチャな車を唸らせて出社して来た。
総務は女子が多かった。
中でも広報課や秘書課の女子はレベルが高かった。
この部署の社員とお友達になることが我々営業の最初の目標だった。
秘書課には毎年1人たけ男子新入社員が配属され、社長の運転手を1年間続けるのだった。
この男子と友達になり地元採用のレベルが高い秘書課と広報課に地元を紹介してもらうという作戦がうまくいった。
毎日の研修の後で筆記試験があった。
周りの営業の新人は昼休みにも勉強をしていた。
その隙に私は裏工作をした。
『これが営業の面白さや』と思った。
『彼女を作ろう』ということではない。
何でもかんでも他人と違うことをしたかったので
周りの社員と違う存在でいたかった。
張り切っていたとも言える。
若かった。
2025年03月29日
高校入試本番で最高得点を取る

高校入試も終わり発表も終わり塾も明日で終わりだ。
「入試本番で3年生になってからの最高得点を取った人には旅行のお土産をあげるから教えてね」と告げたところ何人もが言ってきてお土産がなくなってしまった。
昨日、一昨日の勉強会に来た人だけなので来ていない人も合わせると受験した人の半数くらいが該当する勢いだ。
「よくがんばった!」
素晴らしい!
普段の学校のテストよりも100点も良かった人がいる。
3年生の悪い点数と比べると倍くらいの点数を取った人がいる。
でもな、全員じゃないんだよ。
まあまあなら良いけど良くない点数の人もいる。
『何でかな?』
3年生の学校のテストでも良かったり悪かったり、
過去問題集でもそうだ。
一言で言えば「まだまだ」ということになる。
良かった人もそれがそのまま実力ということではなくて「たまたま」と考える方が良い。
悪かった人はその「たまたま」が悪い方に出てしまった。
学校のテストも過去問題集も全部がいつも悪いのなら実力不足だが、良かった事もあるから「まだまだ」の実力で「たまたま」悪いのが出てしまった。
良かった人は「たまたま」良いのが出た。
これが中学生の怖いところだ。
これがいつも良いのが出れば本当の実力だ。
高校生はスタートダッシュが肝心だ。 最初のテストの順位がそのまましばらく継続する。
それはそうとして、良かった時は素直に喜ぼう!
2025年03月28日
中学生の成長

昨日は久しぶりに吉田塾があった。
「春休み宿題応援会」
新中学1年生から新高校1年生までの4つの学年が集まってくれた。
初めて来る人が何人かいて、この日が最後の人が何人かいる。
この年代で学年が3つ違うと大人と子どもの様な差がある。
高校入試を終えた人達はゆったりしている。
ホンネで言えばたるんでいる。
少し前は鍛え上げた学力と本番前の緊張感があったが、
あの時の様子にはもう一生ならないだろう。
やり遂げた満足感がすこしずつ寂しさにつながる人もいるだろう。
一方で新中学生1年生はまだチョコチョコしていてヒヨコの様だ。
私に対してもタメ口の子もいる。
放っておくと漢字練習帳をやる人もいる。
自分で考えて欲しいので厳しくとがめないが、
「お金を払って来てるので。ここでしか出来ない事をやろう」と何度も全員に対して言う。
3年生くらいになると塾で漢字練習帳をやる生徒はいなくなる。
「勉強の仕方」とよく言うが、マニュアルの様に説明出来るものでもなければ一度伝えたから出来るものでもない。
「丸付け」1つをとってもそうだ。
基本は1ページやれば丸付けをするのが良いが、
その1問が合っているのかどうかが気になれば1問で丸付けをしても良い。
「ノートの取り方」もそうだ。
1ページのノートを幾つに分けるのかを聞かれるが
「3つくらいで良いと思う」と提案はすれど、
中1の数学「正負の計算」の易しい問題ならそれでも良い。
一次関数の応用問題をやるのは2つに分けるくらいで良い。
つまり「勉強の仕方」を教えるということはその時々で考えて正しいやり方でやるということだ。
そのための提案や基本的な例は言うが強制はしない。
丸付けが面倒でやらない3年生がいた。
私が言ってもやらない。
昨日は伊那北高校に進学する2人が近くにいた。
「この人は丸付けをしないんだけど2人もしないか?」
と聞くと「します」と答えてくれた。
それを聞いていた3年生に「『後でまとめてやれば?』と2人に言うか?」と聞くと「それはさすがに出来ません」と答えてくれた。
「俺の言う事よりもこの人達の言う事を聞くんかい?」と3年生に言ってやった。
来年にはこの3年生が後輩に教える立場になっているだろう。
この2人の新高校1年生も少し前は丸付けなんてしなかった。
みんな成長する。
俺も頑張ろう!
2025年03月27日
地球が火星の様になる

子どもの頃に読んだSF小説に「地球の気候が火星の様になる」と書いてあった。
暑い日はとても暑く寒い日はとても寒くて我々は今の様に暮らす事が出来ないということだ。
外に出るにはイラストの様な防護服か宇宙服の様なものを着なくてはいけなくなる。
建物から地下を移動し他の建物へ行く。
そんな日が本当に来るのかも知れないと思う人が少しずつ増えているのではないか。
今日はどうしよう?
山登りやジョギング、ウォーキング、なんかしたら花粉か黄砂にやられる事間違いない。
紫外線も強力だし、風が強い日は歩くのさえ危険だ。
先週はまだ雪が降っていた。
都会の様な地下街をウォーキングするのがよい。
関門トンネルや信濃川河口トンネルは地元の人のウォーキングコースになっている。
でも密閉された空間はコロナやインフルエンザが心配なのでやはりマスクは必要だろう。
青空の下でのんびり過ごす事がとても贅沢なんだ。
地球は火星よりも厳しいのかも知れない。
2025年03月26日
「ワンランク下げた高校で上位を目指せ」はウソ

「ワンランク下げて上位を目指せ」は中学の先生が志望校の変更を促す為に使う常套文句だ。
これはウソだと言えるほどそうならない。
既に高校が決まった時期だがあえてこのことを書く。
高校は学力で輪切りをされて入学してくる。
よく似た成績の生徒が多くなる。
少し頑張れば上位に行けるが、少しサボると下位に落ちる。
中学よりも学ぶ量が多いので一度下位に落ちると元に戻すためには物凄く沢山の内容をやり直さなくてはいけない。
「入学して夏休みまでには伊那北の下位の30%は模試で弥生の上位30%に負ける」伊那北高校の先生がこう話した。
下位になるとヤル気がなくなり、『頑張ろう』とたまに思っても同レベルの生徒がコツコツとやっている中で復活するのは難しくやがてまたヤル気がなくなる。
「弥生は危ないから変えなさい」と言われたが何とか弥生に入り、上位の成績を維持して現役で国立大学の理系に入った人が複数人いる。
弥生を落ちて赤穂に入りその悔しさから頑張って上位の成績を取って夢を実現した人もいる。
「受験から自分は逃げた」と志望校を変更した事を悔やんで高校で頑張って夢を実現した人もいる。
結局は高校で頑張るかどうかが大事で入った時の成績が物凄く重要ということではない。
最初に上位に行くことが大事だ。
その高校の一番には必ず誰かがなれる。
中学の時の成績順位は幼い頃の成績が引き継がれるのでやってもやっても大きくは上がらない。
高校は同じ成績の人が多いので上がりやすい。
最初が肝心なので浮かれすぎずに頑張ってください。
2025年03月25日
私が旅行をする消極的な意味

無事駒ヶ根に戻って来ました。
最後の方は良い天気になってきたと思ったら花粉に黄砂に冒されています。
もしかするとPM2.5も混じっているのかも。
咳とくしゃみと目のショボショボにやられています。
7年くらい前からこの時期にまとめて旅行に行ってます。
旅行が楽しいから1年間頑張ったあとに旅行に行くというのが積極的な意味なら、もう一つの消極的な意味があります。
引退の準備をしているのです。
自分の子どもと遊ぶ為に駒ヶ根に移住しましたが
子どもがいなくなり、駒ヶ根にいる意味はなくなりました。
しかし私を師事してくれる多くの人がいます。
とても嬉しいです。
大きな生き甲斐です。
ずっとやっていたい気もあります。
かつては小学生から高校生まで教えていました。
不登校の人や養護学級の人も教えてきました。
どれも楽しくてやり甲斐がありました。
しかし手を広げると畳むのが大変になるというのは分かっていました。
人を雇うともっとやめられなくなります。
コンパクトにしておきたいという気持ちとやるなら沢山の人に喜んで欲しいという気持ちがあります。
その抑える気持ちを出すのが旅なんです。
休んでの旅に行かなければずっと継続して塾をやっていることになるのですが、そうなるとどんどんと大きくなってしまいます。
割と営業は得意でガンガン行くので、やり続けるとヤバくなります。自分の能力でカバーできなくなるのにも気が付かずに拡がってしまいます。
そして引退出来ないのでは?というストレスが増えていきます。
旅行に行くことでそのストレスであり恐怖から逃れています。
『辞めるタイミングは自分で決められる』と安心して仕事に臨むことが出来ます。
受験本番を前にして新たな生徒の春期講習のことも考えないといけない他の塾の様にやるのは私には無理です。
2025年03月24日
私はより一層おとなしくなります
山陰地方の山口、島根、鳥取は良かった。
兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

2025年03月23日
大山は凄かった

鳥取県の米子という街で大山が見えた。
想像していたよりもずっと立派で大きくて、まさに伯耆富士と呼ばれるだけのことはある。
標高は1700メートル少しなので長野県の山と比べると高くはない。
しかし独立峰なので富士山の如くとてもかっこいい。
『よし、あれを見に行こう』と思った。
山を登るのではなくてもっと近くで見ようと思ったのだ。
雪道で行けそうにないなら早めに戻れば良い。
大山寺というお寺まで行こうと計画した、
途中の道はずっと乾いたままだが、道の周りはドンドン雪が増えている。
『このまま行けるのか?』
と思ったら大山寺の駐車場に着いた。
駐車場はほぼ雪の壁に囲まれていた。
参道も雪の壁で進むにつれて壁は高くなり道は細くなってきた。
最後の階段はほぼ氷の道だ。
辿り着いた大山寺は衝撃だった。
本堂がほとんど見えない。

信州に住んでいてもこんなに凄いお寺は初めて見た。
このお寺の標高は駒ヶ根の高速道路くらいしかない。
それなのにこんなに積もるとは驚きしかない。
北西の強い季節風が海の水蒸気が雪になり、それを大山にぶつけるのだ。
本堂から駐車場までの階段は手すりをつかんで後ろ向きに下った。
2025年03月22日
バイパスを作ってください

中国地方の海沿いをグルリと車で走っている。
思ったよりもスムーズに走る事が出来る。
バイパスが整備されているのだ。
大都会の広島市でさえ無料のバイパスが高架で通っている。
小さな町がポツンとある山陰地域は高速道路を作ろうとしていて途切れ途切れなので無料区間が多い。
高架のバイパスは信号や踏切がなくて渋滞も少ない。
昔、バイクで広島バイパスを通ると捕まると言ったやつと旅先で会った事がある。原付ではなくてバイクだが、当時はアチコチで車は通れるがバイクは通れないというバイパスや高架道路があった。大阪の一般道でバイクに乗っていて渋滞に巻き込まれた事があった。トラックのすぐ後ろで止まったり進んだりを繰り返して高架道路を過ぎると取り締まりがあって捕まった。あんまりやろ。
長野県にはバイパスが少ない。松本は広島よりもヤバいかも。諏訪でさえも渋滞が激しい。
駒ヶ根はバイパスが出来て随分良くなった。
長野県もバイパスを作ってください。
日本中から、世界から人が来てドライブするのに長野県は最高じゃないですか。
渋滞さえなければ。
2025年03月21日
ゲゲゲで社会科を学ぶ

祖父母の家は大阪の農村部にあった。
村の中は寺を中心に沢山の家と何軒かの商店があった。
村を貫く道を歩くと家に代わって田畑が現れる。
村外れに来ると墓があり、森がある。
森の中には神社もあり、鬱蒼としている。
妖怪がいるのはこの辺りだ。
村へよそ者が入ってくることは一大事であり、
村社会を維持するには村人が出ていかないことも大事だ。
村の出入口を妖怪が守っているとも言える。
ゲゲゲは公害や自然破壊にも厳しい。
金儲けだけを考える人間を妖怪が懲らしめて、
その妖怪を鬼太郎は退治するが、
同時に人間もキツく諭す。
作者が戦争で片腕を失うなどの悲惨な体験をした事がゲゲゲの中にもでてくる。
戦争を経験した人と時代をともにしている今の子ども達にとって、歴史を学ぶことはもっと大切ではないだろうか。
ゲゲゲを読んだりテレビで見たことが学校で習った文字だけの社会科よりもずっと印象に残っている。
2025年03月20日
卒業した学校が廃校になるとイヤやな

旅をしているとこの時期は卒業式シーズンだと気がつく。
塾の皆さんも卒業式を終えただろう。
旅をしているといつも思うのは廃校が多いということだ。
『全く人の気配がないこの辺りにも学校があったということはさぞ賑やかだったのだろう』ということだ。
学校どころか子どもなんて1人も見かけない。
時々見かける年配の人はあの廃校の卒業生かも知れない。
卒業した学校が廃校になるとイヤだろうな。
自分の事を考えてみたが廃校にはなってないが随分と人は減っている。
大阪の40万都市でもそれなので多くの人は卒業した学校が廃校になる心配がある。
沢山の笑顔と涙があったはずなのに、、、
2025年03月19日
松下村塾と吉田塾との共通点

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎 など総理大臣2人を含む有名人を沢山輩出した塾が松下村塾だ。
吉田塾からはまだ総理大臣は出ていないので早く誰かになって欲しい。
それでは共通点は何か?
松下村塾は吉田松陰先生で
吉田塾は吉田耕司が先生です。
書いていて恐れ多すぎて寒気がした。
せっかく書いたからそのままにさせてください。
塾の広さは吉田塾の方が広いかも?
2025年03月18日
次男まであと僅か17㌔

「冬タイヤ装着」高速道路の表示を見て驚いた。
聞いたことのないインターチェンジの間と書いてある。
『どこやねん?』とビビりながら走った。
タイヤはもう夏のタイヤに換えた。
今朝広島ではほんの少しだが雪が舞った。
天気が悪いのでのんびり観光する気にもならずにビビりながら走った。
気が付くと九州に来ていた。
関門大橋を渡ったのだ。
ここで暗くなったので門司港近くの宿にした。
北九州には次男がいる。
ネットで調べるとあと僅か17㌔で次男がいるはずだ。
しかし雨で夜で小倉の大都会を運転する気がしない。
広島の大都会を抜け出して宮島の観光をした事もあり疲れた。
ラインで連絡をしたが駒ヶ根から連絡をするのと変わりはなかった。
2025年03月17日
27階の部屋から原爆ドームを見おろす罪悪感

ホテルの部屋は27階だ。
とても景色が良くて感動。
遠くに海が見える隣のイベント会場は元の広島市民球場だ。
そして原爆ドームが真下に見える。
爆心地はその隣で、平和記念公園があって資料館も見える。
写真の手前にある黒っぽいビルがおりづるタワーでその右が原爆ドームだ。
最高の立地にうっとりとする。
チェックインのあとで原爆ドーム、平和記念公園、平和記念資料館、を見た。
テレビで観るのとは違い実際にこの場所に起こった悲惨な状況に心が痛む。
自分の親世代の子ども達の姿は見るにキツイ。
部屋に戻るとそれらを上から見おろす。
『見下ろしても良いのだろうか』
と思う。
このホテルの場所でも亡くなった人が沢山いるだろう。
なんにも悪くないその人達が突然亡くなって、
なんにも偉くない自分が上からその場所を見下ろしている。
『これってあかんのちゃうか?』
だからと言って低いホテルに泊まるとか、他の場所に泊まるとかをしても意味はない。
白人を中心に物凄く沢山の外国人がいた。
『外国人だから、アメリカ人だから、日本人だから、とそれぞれで感じ方は違うものだろうか。』
夜遅くに雨が降っていた。
霧のようなものに煙った原爆ドームはずっと光が当てられていた。
『どんだけ辛かったことか』
2025年03月16日
海が目の前の宿


海が目の前の宿で朝を迎えました。
昨日からずっと雨です。
それでもそれはそれで雨音が心地よいです。
海まで5メートルくらいかな。
こんなに近くで泊まるのは初めてです。
昨夜は津波の被害を受けた方のドキュメンタリーをテレビで見たので怖い気持ちはありますがやっぱり海に憧れます。
瀬戸内海の小さな島にある宿です。
すぐそばに学校はありますが営業終了しています。
のどかな島です。
驚きは1泊素泊まりで1人3300円です。土曜日はどこの宿も高いのにたったの3300円です。
個室にはエアコンとテレビがあります。
キチンと掃除されています。
地図にあるように広島の呉市の沖合いにある島ですが橋で渡る事が出来ます。
元々は普通の民宿だった様でその厨房を自由に使えるので食材を持ち込むと良いです。
もう一度見てきます。
訂正です。海まで3メートルです。
潮が満ちてきた様でさっきまで見えていた石が隠れてしまいました。

2025年03月15日
放浪記

放浪記は林芙美子が書いた小説で広島県尾道を舞台にしたものだ。100年くらい前の事だが「しみじみと感じる」という私に欠けている感情を表現している。
"海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい"はその小説の有名なくだりだ。
私は学生の頃にバイク旅で尾道に来たことがある。大して観光地化されてもなくて坂の下はゴチャゴチャしていた。
船の重油の匂いと鉄工所の作業の音、そして狭い海峡を通る船のエンジン音がゴチャゴチャをさらにゴチャゴチャにしていた。
久しぶりの尾道は随分とスッキリしていた。
卒業旅行だろうか若者がオシャレに観光をしている。
しかし幾つかの観光スポットだけに現れる彼らには不思議な感覚がする。
昔と変わらないのはネコの多さだが、猫カフェやネコグッズなどの人為的なネコが増えた。
ネコ達も心なしかオシャレになった。
2025年03月14日
春は曙

大相撲の春場所をやっている。
楽しみが増えた。
実力が拮抗していて誰が勝つのか予想がつかない。
長野県の御嶽海もまだまだ頑張って欲しい。
大阪に住んでいた頃も大相撲は大人気だった。
貴乃花と若乃花が人気で曙や武蔵丸のハワイ出身横綱も強かった。
夕方の6時くらいに難波の体育館を通りがかった。
ちょうど終わった時間の様で大勢のお客が出てきた。
終わったところなのにすぐに列が出来始めた。
次の日の入場のための列だと知って驚いた。
『ずっとここに住んでるのか?』
と思った。
「春は曙」と言われていたのは春場所は曙が強かったからだ。
数年前に曙さんは亡くなった。
ドイツの三越で武蔵丸と買い物をしていた姿を見かけた事があるが茶目っ気があり、親しみもある人だった。
2025年03月13日
社会科見学 明石市市立天文科学館

日本の標準子午線はこの場所を通っている。
この写真の明石市市立天文科学館の玄関の脇の線がまさにそれだ。
東経135度の線だ。
イギリスのグリニッジ天文台を0度として地球を東西180度ずつに分ける。
360度を24時間で割ると15なので15度が1時間だ。
日本とイギリスでは9時間の時差だ。
中1でやりましたね。
その日本の標準子午線に行ってきました。
つまり遊びや観光ではなくて社会科見学です。
生徒のご家庭で経費をご負担頂けないでしょうか。
このあとも皆さんのための社会科見学は続きます。
2025年03月12日
私は入試問題を見ない

「全然出来ませんでした〜」
「結構出来たかも?」
「きっと大丈夫、でもヤバいかも?」
受験を終えた人は色んな感想を送ってくれる。
『みんな受かってると良いな〜』
『どんな問題立ったのかな?』
そう思うが今の時期に問題を見返す気力がない。
私が問題を見返すのは今の2年生がしっかり力を付けた冬休み辺りからだ。
その頃になるとヤケに気合いが入って解説を何枚も作ったりする。
25年くらい前か、この仕事を始めた頃には同業の先輩数人の勉強会に参加させて貰っていた。
高校入試の予想から始まり入試が終わると反省会が始まる。
新聞に載った入試問題を切り抜いてアレコレと話し合うのだ。
「今年の問題は難しかった」
「地学が出たが天文は出なかった。」
「国語の作文は量多くて準備が必要」
「吉田先生はどう思う?」
「イヤ〜。、普通ですかね?」
とごまかすしかない。
見てないのだから。
終わったら一旦離れてパァーッとしたい。
今年も美味しいものを腹一杯に食べてこんな景色を見ながらブログを書いています。
やる時はやるので大丈夫です。
2025年03月11日
人事を尽くして天命を待つ

やれる事をやり切って、あとは運に任せることだと私は理解している。
そうしようと心がけている。
努力が苦手な私だが心がけるとちょっとはがんばれるし、ちょっとはドキドキしない。
今日受験の人もやり切ったか?
ちょっとはやり残してるよね。
でもまあまあがんばったよね。
そしたらちょっとはドキドキしないんじゃないかな?
それで良いやん。
人間だもの。
最後は別の人の名言で締めました。
2025年03月10日
高校入試の変化

明日は長野県の県立高校入試だ。
塾の22人の皆さんは私がパワーを送るのでしっかり受け取ってくれて実力を出しさえすれば大丈夫です。
「駒ヶ根には大学に行ける高校がなくて伊那まで行かないとダメなんですよ」
移住して来た頃に近所の人に言われた。
息子はまだ赤ちゃんだったのでそんな事は考えてもなかった。
中学生や高校生の勉強に関わる仕事をするようになってその言葉の意味がわかった。
駒ヶ根工業や赤穂高校からは大学に行けずに伊那北高校か弥生ヶ丘高校に行きなさいという意味だったのだ。
そのことが正しいのかどうかは分からないが当時の地元の人の中にはそんなふうに思っている人がいたのは事実だ。
「みんながせめて200点は取って入って来て欲しいわ」
これは上農の先生が上農の新入生に言った言葉らしい。
私にこれを伝えた生徒も200まではかなりあった。
当時の中学生は勉強をしない人は全くせずに五教科で100点を大きく下回る人はクラスに何人かいた。
そうした点数でもたいていは公立高校に入れた。
言い換えればほとんど勉強しなくても入れた。
その反対に進学校と呼ばれる学校は人気があり定員をかなりオーバーした受験生がいた。それらを受験する生徒の勉強量は今の生徒よりも多かった。新研究の基礎的な内容は全部頭に入っていた。
しばらく年数が過ぎた。
少子化で高校の生き残りが言われる様になると駒ヶ根工業も赤穂高校も大学に入れる学校になった。大学から指定校推薦の枠を貰って来たのだ。高遠高校や箕輪工業からも大学へ行った生徒が出た。美術や工業などの大学に推薦で入った。私の生徒だった中学生の時はほとんど勉強をしなかったがきっと高校生では真面目にやったのだろう。
コース制にしたり、商科=簿記 だけでなくてマーケティングを学べる様にした。どの学科も地域の人と関わったり、研究発表をする機会を増やした。
「おもしろそう」と中学生から人気が出た。
その結果どの高校も人気が出た。少子化の影響は進学校の競争率に表れた。どの高校もほぼ定員くらいの志願者で本番を迎える様になった。そしてきっとどの高校に入っても勉強をしっかり出来るし、しなくてはいけなくなった。
それが関係しているのか世の中の流れなのか、勉強を全くしない中学生はきっといなくなった。
そのためかやってもやっても上がらないし、やらないとすぐに下がる。それなのにどっかの高校には入れるしどこに入っても進学も就職も出来る。
進学が就職よりも上だ、という風潮は少しずつなくなってきた。それでもまだ強く残ってはいる。個人的な意見だ。高卒で就職した人は豊かな暮らしをしている。大学へ行くのは凄く勉強が出来て沢山やれる人だけで良い。他の多くの人は早く働いて家族を作って楽しく暮らすと良い。そんな先輩が地元には沢山いる。
学習塾をやる身としては頑張らせるのが難しい。
偏差値ピラミッドみたいなのがあると塾は流行りそう。
まあ、良い。
沢山詰め込んで、明日は出来る限り沢山書いてきてください。
2025年03月09日
春が大好きです

中学生の頃の春休みに友人達と京都の室内スケートリンクへ行った。
『親と行くんじゃなくて友達とスケートに行くなんてオラもう大人だべ』ととても嬉しくウキウキした記憶がある。
そのスケートリンクでこの写真の曲が流れていた。
「不思議なピーチパイ」竹内まりやだ。
スケートそのものはこの曲の様に踊るような軽やかさではなかったが自分の人生は春の明るい未来が待っていると思った。
「春はええな〜」
中学生の頃は朝刊配達をした。
夜中の3時とか4時に配る。
めっちゃ寒かった。
軍手とか普通のジャンパーしかなかった。
3月になり配り終えたら少し明るくなって嬉しかった。
『もうすぐ春や。寒くなくなるわ』
それからかなり時間が過ぎて駒ヶ根で家庭教師を始めた。
中3の生徒の最終回だった。色んなことを思い出した。
しんどいことの方が多かった。
寂しさと嬉しさがあった。
『嫌になるほど来たこの家に来る事はもうないんや』と思った。
外の空気が少し暖かくなっていた。
『お互いにしんどかったな、でももうすぐ春や』
この仕事を続けていると凄く春が待ち遠しい。
地獄の様な冬休みを終える頃には日が暮れるのが少しだけ遅くなったのがわかる。
受験生が待ち遠しいと思う気持ちよりも私の気持ちの方が強いと思っている。
沢山の生徒がいる塾は新聞配達の時に負けないくらいしんどい。
冬は特にしんどい。
その分春は嬉しい。
嫌だということではない。
しんどいということだ。
今年はなかなか暖かくならない。
それでも明日で終わりで必ず春が来る。
今年も春を求めて暖かい所へ行くぞ。
そしたら早く春が見つかる。
2025年03月08日
卒業

「卒業」って映画があって花嫁を元の恋人がさらって行って「サウンドオブサイレンス」が流れて、、
ご存じですか?
『大人になったらアレやろう』と思っていたのですが
すっかり忘れたまま年を取ってしまいました。
昨日で塾は終わりでした。
勉強会は月曜までありますがそっちはなんとなく気が楽なんです。オマケというか追加サービスというか、最悪やらなくても大丈夫かな、と考えています。
勉強会に来る人はご心配なく。やる以上は気合いを入れて行きます。
レギュラー日程の塾は『絶対にやすまないぞ』だけでなくてベストコンディションを維持して臨む様にしていました。
身体も心も頭も準備していました。
その塾を卒業出来たのでホッとしています。
卒業したのは生徒だけではなくて私も卒業したのです。
『今年も何とかやり遂げた』と思っています。
これまで御縁があった生徒は600人を超えています。
その中で卒業したと言える生徒はどのくらいだろう。
ほとんどの人は卒業すれば何の音沙汰もない。
私のことなど覚えていない人も多いだろう。
『顔を合わせたくない』と気まずい形でお別れした人もそれなりにいる。
「先生のおかげです。」と言ってくれた人も何の連絡もない。
そんなもんだ。それで良い。
皆さんその先の人生の方が大事で頑張らないといけないないので振り返っている暇はない。
私だって同じだ。
次の生徒もいるし、むしろ次の生徒を探さないといけない。
自分の次の人生を探さないといけないのかも知れない。
振り返るのはほんの一瞬で、チラッと見るだけで良い。
人生の僅かな一瞬のその中の一部分を一緒に過ごしてまた離れていく。それが卒業だ。
さらりといこう。
2025年03月08日
無職の恐怖

間もなく塾が終わる。
同時に私は無職となり収入はなくなる。
これはなかなかの恐怖だ。
自分の居所というか役割りというか、
とにかく何もなくなる。
108歳の散髪屋のおばあさんがギネスに載ったらしい。
街の食堂にはかなりの年配の人が働いている、
しかし多くの人は無職になる。
早期退職も流行っている。
いずれにせよなる時は恐怖と楽しみの両方ある人が多いのではないか。
数年前に四国一周を歩いた時に宿帳に「無職」と書いたことがあった。何となく恥ずかしかった。
「来年度もお願いします」と言ってくれる人もいなくはないが実際に復帰出来るかどうかはわからない。
広い場所を借りて安い料金にしてしまったのでそれなりの人数がいないと復帰は出来ない。実際には誰も来ないかも知れない。身体を壊して出来なくなるかも知れない。沢山の生徒を預かり何もかも自分で決めなくてはいけなくいプレッシャーは大きい。休むと迷惑をかけてしまうのでそれも嫌だ。そうした仕事から逃れられる安心もある。
とにかく来週は無職だ。しばらく消える。
どこかの宿で「無職」と書いてくる。
2025年03月07日
お父ちゃんが帰ってきた

最近動画配信サービスで朝ドラを見ている。
何故か2つのドラマを並行して見ているので話しがこんがらがってしまう。
さらにややこしいのはどちらのドラマも行方不明になっていたお父ちゃんが最近になって帰ってきた。
ここからは私が見た夢のはなしだ。
私の父親も帰って来た。
色んな人がやってきて喜んでいる。
私も嬉しかった。
お祭り騒ぎだった。
一通り喜ぶとみんなが家に帰っていった。
残ったのは私と父親だけだった。
「お父さんは帰られんの?」
「帰らへん」
「ずっとここにおるん?」
「ずっとおる」
「なんもする事ないん?」
「なんもない」
『おっさん2人で何をする?』
「え〜〜〜!」
少し重たいと思った。
私の父親は既に亡くなっている。
せっかくあの世から帰って来たのにゴメン。
2025年03月06日
廃校になった小学校

瀬戸町立田部小学校高茂分校(1961年)
瀬戸町立三机第二小学校(1977年瀬戸町立三机小学校)
瀬戸町立大江小学校(同上)
三崎町立松小学校(1977年三崎町立二名津小学校へ)
三崎町立釜木小学校(同上)
瀬戸町立田部小学校(1979年瀬戸町立大久小学校へ)
瀬戸町立神崎小学校(1980年大久小)
瀬戸町立足成小学校(1982年三机小)
瀬戸町立小島小学校(1986年三机小)
三崎町立大佐田小学校(1991年三崎町立三崎小学校)
三崎町立与侈小学校(1993年三崎小)
伊方町立有寿来小学校(2001年伊方町立伊方小学校へ)
瀬戸町立川之浜小学校(2003年大久小へ統合)
三崎町立名取小学校(2003年二名津小へ統合)
三崎町立正野小学校(2005年伊方町立佐田岬小学校へ)
三崎町立串小学校(同上)
伊方町立豊之浦小学校(2009年伊方小へ統合)
伊方町立塩成小学校(2009年三机小へ統合)
伊方町立二名津小学校(2013年三崎小へ統合) 伊方町立佐田岬小学校(2014年三崎) 伊方町立二見小学校(2015年伊方町立九町小学校へ統合) 伊方町立水ヶ浦小学校2019年伊方小へ統合
母親方の家があったのが愛媛県の一番西の端の場所だ。
日本一細長い半島にみかん畑が続く。
小学生の頃は夏休みの大半をここで過ごした。
祖父母の家の近所にも同世代の子どもが何人もいて海で一緒に泳いだり、魚釣りをした。
立派な道路が出来て原発まで出来た。
祖父母の墓はあるが頼って行く親戚もいない。
墓の場所さえ覚えていないかも知れない。
道の駅が出来て沢山の人がただ通り過ぎる。
一歩裏へ入ると静まり返った家々が並ぶ。
私が生まれる前には映画館もあったらしい。
うねうねとした山道を越えると次の集落があり小学校があった。賑やかな声がした。よそ者としては少し怖かった。
幾つもあった小学校はどんどんと統廃合されている。
上伊那にも沢山の廃校があるが祖父母の町にはこんなに沢山の廃校があるなんて知らなかった。
2025年03月05日
「社会科」の問題

社会科の長野県の高校入試の問題はとても物足りない。
去年の入試問題を見た。
歴史は「平安」の1つしか単語を書く答えがない。
記述が1つで他は全部記号だ。
公民は「共助」の1つで記述問題ばかりだ。
それも環境や社会保障に偏っている。
地理は記述が4つあるがどれも知識を問うのではなくて
問題の中の資料やグラフを見て答えるので読み取れば出来る。
知識の量を問うのではなくて「考える力」を問うのが目的なのだろう。
公立高校の入試は義務教育で学んだことを問うべきだ。
中学生の社会科の知識が乏し過ぎる。
近隣の市町村の名前や駒ヶ根の中の小学校の名前にある「中沢」「東伊那」の地名を「赤穂」に住む子どもは知らない。
都道府県や主な都市や川や山の名前を知らない。
まして世界地理はほぼ入試に出ない。
入試に出ないので3年生のテストにはほぼ出ない。
「この地域はこんなに素敵なんだね。行きたいな〜」
「この地域にはこういう問題があるんだね」
興味を持つことで将来行きたいと思って欲しい。
「今の自分達の生活はこうした先人の営みの上で成り立っている」ということと「教養」として身につけたい。
「少子高齢化」「地球温暖化」しか公民で学んだ知識がない。
どの分野でも学んだ知識があまりにも少ない。
知識があってその上で「考える力」を問うのは良いかも知れないが知識がなくても問題の中の資料を見て解くコツを知っていれば答えられるのではつまらない。
「暗記」は悪いもので「考えること」は良いことだとするのは間違いだ。
沢山暗記して答案用紙に沢山書くことは充実感や達成感を得ることが出来る。
この問題が最終到達点なら学校の授業は何をするのだろう。
20年前の赤穂高校では世界の全ての国名を暗記させた。
白地図に書き込むのだ。200近くある国の多くは聞いたこともなく覚えにくい名前が多い。私が教えていた生徒は嫌になって「こんな事をしても意味がない」と泣いてしまった。
私が高校生の時は古文や漢文を丸暗記させられた。
今でも微かに覚えていて賢い気がして何となく心地よい。
「暗記」する事を訓練する為にも社会科はひたすら覚えると良い。単語の意味を授業で説明してそれを覚えさせてテストに出す。これなら生徒も教師もやりやすいのではないか。
受験勉強をしやすく、やった甲斐がある様な問題にして欲しい。
2025年03月04日
PL学園は大阪人の誇りだった

「ワシはPLの四番やったんや」
昔の大阪にはそう自慢するおっさんがあちこちにいた。
PLというのは高校野球の強豪校で大阪代表だった。
四番というのは四番打者でチームで一番のホームランバッターということだ。
この酔っぱらいのおっさん達の発言は100%嘘だが、そのくらい大阪人の憧れであり誇りだった。
当時はプロ野球の巨人がとても強くて阪神はなかなか勝てなかった。東京に勝てるPL学園が誇りだったのだ。
写真は当時の雑誌の表紙だがそこにある名前はPL学園出身の有名な野球選手だ。
松井稼頭央はPL学園出身でプロ野球で活躍し楽天の監督をした人だ。その松井と大リーグパドレスのダルビッシュの対談が面白い。ダルビッシュはPL学園がある大阪の羽曳野市の出身だが東北高校に進んだ。「なんでPLに来てくれなかったんや?」と松井は言う。「PLの練習が厳し過ぎて僕にはついていけないと思ったんです。」とダルビッシュは答えた。あのダルビッシュがついていけないとおもったなんて。朝の練習のために6時に目覚ましを合わせるが目覚ましが鳴る5分前には起きなくてはいけない、といった様な謎のルールが沢山あった。
「PLの練習と比べるとプロ野球の練習はとても楽だった。」と松井は話した。
この部分に私は感銘を受けた。
厳しい経験をしているとあとが楽なのだ。
大して厳しいことを経験してない私だが納得する。
無理やり高校受験に持ってくるが、過去問題集を3回ずつ全部やるということには厳しいことを経験するといったメリットもある。
2時間の勉強会に耐えられる人が多くなった。
自分の実力を超えた難しい問題を解くことも同じメリットがある。
中学の授業が解るようにして高校受験を突破する事が吉田塾の目標だが楽しいことと厳しいことの両方を経験することが後の人生に役に立つ。『一生の財産』である。
PL学園は日本中から優秀な中学生を集めたエリートチームだから強いというわけでもなければ、優秀なコーチが素晴らしい環境で完成された指導方法を使って指導しているというわけでもない。
理不尽な厳しさが果てしなく存在していた。
当時の「PLの四番」と語ったおっちゃん達もそのことを知らない。
2025年03月03日
学級崩壊から学校崩壊の危機

学級崩壊というのは聞いたことがあるが最近では学校崩壊が起きることもあるそうだ。
学級崩壊は数人のトラブルが原因で起こり、担任教師が解決に追われている間に他への配慮が疎かになってトラブルが拡がっていく。
クラス全体が荒れてしまい授業が成り立たない状況だ。
それでも教頭など他の先生の言う事は聞くし、担任交代やクラス替えなどで収まることがほとんどだ。
学校崩壊はこの学級崩壊が飛び火して学校全体が制御不能になることだ。こうなってしまうと誰の言うことも聞かないし、担任教師全員を交代することも出来ないので大変だ。こうなる前に手を打たないといけない。
息子達が小学校の時にも同時に学級崩壊が起きたので学校崩壊の危機だったのかも知れない。
実はこれを収めたのは私だ。
2人の息子のクラスで人と人とのトラブルがあった。この2つは関係ない内容だ。当事者達と親と担任教師で話しをしたが、当事者が泣きだしたり、学校を休んだり、暴力的になったりで収めることが出来ない間に他の児童のトラブルが起き始めた。担任教師が疲れてしまいクラス管理が出来ていなかったのが広がった理由だと思った。
保護者と担任教師に教頭を交えたクラス全体の話し合いが持たれた。
私の息子達は当事者でも影響を受ける側でもなく、私は仕事のない夜に外野的な気分で何度か話し合いに出た。
「担任教師への電話は夜の10時までにしてあげてください。」と教頭が話した。「そんな事を言ってる場合か?」とヒートアップする保護者。怖かった。
教頭ではなくて校長を交える様になったが解決しないので教育長に訴えようと保護者達は息巻いた。
イザとなれば誰も教育長のところへ行こうと言う保護者はいなかった。何故か昼間に暇そうにしている私が行くことにされてしまった。
「詳細を問うても今さら解決しない。壊れた人間関係は戻らない。担任教師は学校としては貴重な人材なので教師のためにも児童のためにも担任替えをお願いします」と私なりに理路整然と話した。
教育長は数ヶ月後の新学期での交代を約束してくれた。
不思議なもので交代が決まったことで交代する前でクラスは落ち着いた。新学期になると何事もなかったかの様だった。
そのためか誰も私を褒めてはくれなかった。
しかし学校崩壊まで進んでしまえば私が教育長と話そうが市長と話そうが無理だろう。
ちなみに校内暴力で荒れていたのは私が子どもの時代だったが恐らくどの学校も似たようなものだった。
『なぜ荒れていてどのように収まったのかはわからない。』少なくとも誰かが何かをして収めたのではなくて時代とともに自然に収まったのだと思う。
沢山のお金と時間をかけて学校そのもの、教育そのものを変えないといけない。150年前に学校が出来た頃と世の中や子どもが育った環境が大きく変わったのに学校は大して変わってはいない。
教師でさえも幼い頃から個室で寝て、少ない家族で育った。わがままも言えるし、贅沢も出来ただろう。
その教師が子ども達に我慢を強いること自体にストレスがある。
集団社会との距離感が昔と違う。
学校崩壊のピンチがあるからこそ良くするチャンスだととらえて真剣に議論するべきだ。
2025年03月02日
教師って楽そう〜と思っていたが、

20歳の頃にバイクで北海道へ行った。
大きな駅前に行くと同じ様なバイク乗りがたむろしていてそのままそこが寝ぐらになるのだった。
安宿に泊まることもあったが大部屋で一緒に寝るのですぐにおしゃべりが始まる。
私の様な無口で人見知りな人には辛い環境だったが、少しは知らない人と喋った。
ほとんどが同じ年頃の人ばかりだった。
バイクだけでなく車や鉄道で来る人もみんな同じ年頃だった。
そんな中で時々大人の人がいた。
大人と言っても20代後半くらいに見えた。
「何の仕事をしてるんですか?」
私はすかさず質問した。
学生でもなければ長期休みを取って北海道に来れないと思ったからだ。
「高校教師です。」
何人かがそう答えてくれた。
夏休みは少しだけ学校に行けばあとは休みだと話してくれた。
その頃の私も教員免許を取る課程で学んでいた。
『学生か終わっても北海道へ来れる』
と夢が膨らんだ。
『社会の先生が社会を知らんでなれるか?』
と思って会社に入ると海外勤務になったのでその後の20代後半で教師になろうかと考えた。
高校の時の担任に相談した。
大阪は40倍くらいの競争率で入ってくるのは甲子園に出たとか帰国子女とか何か特徴のある人ばかりで、それも何年も講師をした後でやっと合格している。
入って来たらもう疲れてる感じですぐに辞める人もいる。
そんな風に話してくれた。
休みの話しをすると
「全然とられへんよ。部活動の指導もある。」
生徒数が減って教師も減らされているが仕事の役は減らないからだそうだ。
『北海道へ行かれへんな』
それだけが理由ではないが楽そうな仕事てはなかった。
今はさらに人が減って先生は大変だろう。
楽をしたい私には無理な仕事だ。
学校の先生のみなさん、子ども達のためにありがとうございます。