2024年03月31日
九州

九州に沢山あるファミレスに入った。
ごく普通のファミレスだ。
座った席からバックヤードの様子がわかる。
2人いるホールの店員が楽しそうにお喋りをしている。この事が長野県に長く住んでいる私には新鮮だったという事は長野県ではあまり見られない光景なのではないだろうか。
接客はごく普通で何ら不満はない。
宿や食堂の人も良く喋ってくれる。
観光案内所の人も気さくな雰囲気だ。
フェリーの誘導員は3箇所でとても良く喋ってくれた。
最南端の佐多岬の郵便局の人も窓口の女性と奥にいた男性との2人で良く喋ってくれた。
私の偏見だろうが西日本の方が気さくで気楽な雰囲気だ。
元々大阪人なので特に思わなかったが長年信州に住んでいて西日本に行くと違いを感じる事が多い。
是非行って勇気を出して話しかけて下さい。
「松本から来ました」で大いに反応してくれますよ
2024年03月30日
春の塾に来る人は成績が良くなる(知らんけど)

僅かばかりの塾の勉強会もあと一回だけた。
それももう締め切った。
これまではほとんど人のいない勉強会だった。
結局は高校入試の為の塾参加だったという事だろう。
高校合格を果たした人は2つに分かれる。
高校での勉強が不安だったり燃えていたりする人と腑抜けの様になっている人だ。
先輩の中で高校生で成績がグッと伸びた人を考えてみると入学時の成績ではなくて入ってから自分でヤル気になった人が多くてその人達はこの時期の勉強会に参加してくれた。
高校合格後にヤル気が高まったのだろう。
新入学後すぐにテストがありそこで何となく高校でのポジションが決まる。
大きな学力差はないはずなのに数ヶ月で中学時のクラスと変わらない位の点差が広がる。
最初が肝心だ。
これは社会に出ても同じだ。
最初に少しだけ頑張ってポジションを得るとあとは周りが押し上げてくれる。つまり一軍に入れるのだ。
高校から先は実力の世界なので一軍を中心に対応される。
残念ながら塾の席はもうない。
2024年03月29日
歩道橋から餅を投げた時代

愛媛県西宇和郡三崎町 今はもうの住所は存在しない。
近くの町に吸収されてしまった。
昭和のある日そんな町に初めての歩道橋が出来た。
大正生まれの祖父が撮った写真がある。
父、妻、長男、と書いてある。
父は私からすれば曽祖父で日清戦争の頃に生まれて愛媛県最高齢まで生きた。
妻というのは私の祖母で去年100歳で亡くなった。
このメンバーで歩道橋開通記念の餅投げをしている写真だ。
良く見れば曽祖父は黒の正装をしている。
歩道橋の上から餅を投げて地域の子どもたちや若い人がそこに群がっていたのだろう。
今の時代には想像しにくい。
高々歩道橋だ。そして餅だ。そもそも集まる人も投げる人もいない。
町さえ無くなった。
この歩道橋を渡る人はどのくらいいるだろう。
写真を見るとみんな誇らしげな顔をしている。
おじいちゃん達、おばあちゃん、しばらくすれば俺も行くからね。
2024年03月28日
高校入試は入る事が易しくなる分頑張らせる事が難しくなる

今年の高校入試の結果が出揃って来た。
上伊那地域では全入学の傾向が見えている。
受験者数の減少に伴って入学定員の削減をしてきたがそれも限界に来ているのだろう。
駒工や上農などは各科が一クラスしかないのでこれ以上減らす事は科を廃止する事になる。
入学定員の減少は伊那北、弥生、赤穂など普通科のクラスがほとんどだった。もうこれ以上減らせば学校として成り立たないくらいになっている。
部活動は人数が足りずに思い描いた活動が出来ない事も少なくない。
ここ数年の合格者の入試で点数は驚くほど低い。
定員割れをしているので当然だろう。
中3の夏くらいの調査だと先ほど挙げた高校への希望者は大きく定員を超えている。その後の教員の進路指導や親の先入観で志望校を変更した結果がほぼ全校定員割れという状況だ。
こうなると学習塾は上伊那においては絶滅危惧種である。
工業や農業の高校の体験入学は楽しくて魅力的らしい。
一方で進学校で頑張るのは辛そうで嫌だと考える生徒や子どもが行きたい高校に行けば良いと考える親が増えている様だ。
つまり昔のようなピラミッドの上を目指して学習塾に行くという構図が崩壊しつつある。
必要ないのなら辞めるかな?
もう少し街場に乗込んで行くか?
今のままで子どもたちや親御さんに危機感を持たせて頑張らせる事がとても大変だ。
そこから得られるものは人生の宝だ。
あ〜しんど。
写真はフェリーから見た瀬戸大橋
2024年03月27日
歩いて家を買いに行く

自宅から歩いて家を買いに行った。
残念ながら買えなかった。
建物や土地だけだはなくて周りの環境や道の繋がりや市内での位置関係を把握して良い場所を探そうと思ったので歩いた。
花粉症に侵されない様に完全防備だった。
春休みなので時々子ども達がいる。
不審者にしか見えないだろう。
しかも時々写真を撮った。
なかなか良い場所は見つからない。
良いと思えば誰かの家が建っている。
ピンポンを押して立ち退いてもらうか?
少人数で私の楽しみ程度の学習塾が出来れば良い。
そうなると道の広さや立地も重要。
駒ヶ根が良い。
国道から農道までで市内の南の辺りが良い。
色々贅沢を言ってると見つからないので妥協も必要か?
いやいや頑張れば何とかなる。
立ち退きを迫るチラシを入れるか?
元生徒の家の場所が良いんだけど、ピンポン押すか?
あの家の息子は家を出たし、夫婦2人だよな。笑
2024年03月26日
長崎原爆資料館

長崎原爆資料館はイラストの長崎平和記念公園のすぐそばにあり1945年8月9日に原子爆弾が落とされた中心地もすぐ近くだ。
資料館の内容はとてもリアルで理路整然と原子爆弾の恐ろしさや悲惨さを伝えている。
実際に被害を受けた人の写真や被害を受けたモノを見る事が出来る。
被害を受けて生き残った人の証言ビデオを見る事が出来る。
私に必要なのは想像力だろう。
イラストの像の他は町中にある美しい公園でハトがいてクルーズ船の外国人が日向ぼっこをしている。
資料館の外観は美しく立派だ。
マンションや住宅が坂道に並ぶごく普通の町並みだ。
資料館で見た風景が実際にそこにあった事を想像するのは難しい。
しかし間違いなく真実だ。
過去の悲惨な事実として想像するのではなくてまた繰り返されるかも知れない悲惨な事実として想像しようと努めた。
資料館には外国人が沢山いた。クルーズ船のアメリカ人やヨーロッパ人の他にもアジアやアフリカからの人だと思われる人も多かった。
日本人の若い人も多かった。
永遠に仲良くしていて欲しい。
今も起きている悲惨な戦いがある。
それらも含めて過去の資料館の中の展示物であって欲しい。
被害に遭った人が、今も遭っている人がどれほど辛いのかを想像しなくてはいけない。
2024年03月23日
運が良いのか、判断が良いのか、とにかく助かった

駒ヶ根は雪が積もっている。
まさかこの時期に。
中央道は冬タイヤ装着の規制が出ている。
既に冬タイヤではない私の車だと走ることは出来ない。
高速が通れないのなら国道で阿智辺りを超える事は厳しいだろう。
昨日のうちに家に着いていて良かった。
明日の日曜日迄を旅程としていたのだが
フェリーは金曜日発と木曜日発とでは数千円の違いがある上に空いている部屋が少なかったので木曜日発にした。
金曜日に大阪南港に着いて実家に泊まるという案と奈良辺りに泊まって春の山の辺の道を歩くのも良いかと計画をした。
天気予報を見ると今日はヤバい様だったので昨日のうちに戻ったのだ。
助かったわ…
2024年03月22日
カーフェリーの列

カーフェリーに乗船するために船の前に車で並んでいた。
前には10台ほどの乗用車が並んでいて
私の次に来た車は誘導員によって隣の列の先頭に並んだ。
私の車が1列目の1番後ろだった。
その次に来た車は何故か2列目の2番目ではなくてかなり離れた列の先頭に誘導された。
ごく普通の車の様に見えた。
その後は2列目の後ろに順当に誘導されたが時々離れた列に誘導される車があった。
そこへまた1台のごく普通の乗用車がやってきたがその車は全然違う所へ並ぶように誘導された。
この様子を車内から見ていたが列の違いと誘導員は何を基準に並べているのかわからなかった。
誘導員は私のそばに1人、離れた列の所に1人、ずっと手前に1人がいる。
私のそばにいる誘導員に話しかけた。
愛想の良い人で仕事の合間に雑談に応じてくれた。
ビッグモーターで買った車で僅かな差で長さが4メートルを超えて料金が高い区分になるという話しで盛りあがった。
そこで列の秘密を尋ねた。
乗用車を分けるのは普通の車、ペットがいる車、そして船室にエレベーターで行きたい人の3つに分けているらしい。
予約時に申請した内容に基づいて印刷した紙には車種とナンバーが書いてある。
それを見て3284のクラウンはエレベーターなのでこの列等と目で見て判断して誘導するらしい。
思ったよりも人力のやり方だ。
因みにチェックインはカウンターに行って車検証を見せて手書きで名前等を書くのは昭和のやり方だ。
スマホ一つで全て完了している。
船や日にちを船室を選ぶ。
料金が表示されて空きも出る。
納得すると申し込みをして名前、連絡先、車種等を入力する。スマホからカード経由で支払い完了だ。
乗船の3時間ほど前にスマホにQRコードが送られてくる。
それを誘導員に見せればそれだけだ。
部屋にもスマホのQRコードで入れる。
船内のカウンターにスマホをかざせばQRコードが印刷されてそれでも入室できる。
とても進んでいる。
誘導員はとてもフレンドリーでかなり長い時間の雑談の相手をしてくれた。
乗り込む時には私の車にだけ声をかけてくれた。
「ありがとうございます。是非また別府にお越し下さい。」
因みに大阪南港でも誘導員と雑談をした。
大隅半島から薩摩半島へのフェリーでも誘導員と喋った。
知らないところで知らない職業の人と喋るのはたのしい。
2024年03月20日
2年生は読まないで下さい

長野県の高校入試の合格発表があった。
合格したよ〜と嬉しい連絡をいっぱい貰った。
ご家族や本人は感動しているだろうな。
私ももちろん嬉しい。
でもそれほどでもないという部分もある。
受験まで持って来る事が私の仕事だからそう思うのかもしれない。
受かるかどうかは運もある。
受験生がオーバーするかどうかもある。
どこの高校を受けるかもある。
その辺りは私にはコントロール出来ない。
私が出来るのはしっかりと受験生に仕上げるという事だ。
色んな人がいるのでかなりしんどい。
上手くいったかどうかの判定はしない。
終われば終わりだ。
ましてや結果は結果で仕方のない事だ。
どこの高校に行ってもそこから人生を拓くのは自分だ。
私の仕事は受験で終わり。
生徒の仕事も受験で終わり。
生徒は結果がとても重要。
私は結果はまあまあ重要。笑
結果を得るために頑張るのだが
本当は頑張る事が大事で結果はまあまあ大事というのが私の立場です。
2024年03月17日
クルーズ船

長崎には色んな見所があるが稲佐山もその一つだ。
誰もいない登山道を30分ほど歩いてたどり着いたが拍子抜けするくらい人がいない。
外国人らしき人が20人程度いた。
展望台でのんびりと長崎の街を眺めていた。
隣の外国人夫婦らしき人がドイツ語で喋っているのが聞こえたので話しかけたくなった。
港に停泊しているクルーズ船に乗ってきたというドイツ人だった。
20日ほどで韓国や日本を周るツアーだそうだ。長崎の他には東京、高知などを周り朝に上陸して観光をして夕方には船に戻るそうだ。
港に2隻のクルーズ船がいる。
稲佐山にいる外国人は荷物が少なくてラフな身なりなのでクルーズ船の乗客なのだろう。
平和記念公園のそばの小さな喫茶店に入った。
小さな店は地元の人10人弱で満員だった。
一人の若い男性が入ってきた。
翻訳アプリでオーダーをしたのを聞いて
客の一人が話しかけた。
香港から来たそうだ。
「船で来たの?」
と質問していた。
地元の人にとっては外国人はクルーズ船で来るという事なのかも知れない。
店を出て平和記念公園で寛いでいると外国人率が高まってきた。
のんびりと日向ぼっこをしながら集まってきた印象だ。
日本人のガイドらしき人が近くに来たので話しかけた。
2隻のうちの一つがアメリカのツアーでその現地ガイドだ。
ここに集合して船に向かうそうだ。
ガイドは船に乗らず新幹線で次の停泊地の鹿児島へ行く。
集合に遅れると自力で次の停泊地まで行かなくてはならないので皆さん早めに集合するらしい。
グラバー邸に着くとヨーロッパ船の出航のセレモニーで太鼓を叩いていた。
ヨーロッパ船が出て行った。
あのドイツ人もきっと乗っているだろう。
御縁があった人がいるのでしっかりと手を振った。
少しするとアメリカ船の前で高校生らしい吹奏楽の演奏が始まった。
アメリカ人はノリが良い。
沢山の人がバルコニーやデッキで手を叩いている。
タオルを振っている人もいる。
グラバー邸の庭から手を振った。
一つの部屋の人がずっとタオルを振っている。
こちらもずっと手を振った。
出航して見えなくなるまで振った。
向こうもずっと振っていた。
長崎は山に囲まれた港なので汽笛が大きく響いて感動的だ。
外国人がいなくなった街は観光客らしき人は少ない。
クルーズ船で旅をするような人はあちこちの観光地をスタンプラリーの様に回ったりはせずにのんびりとしている。
ゆたかやわ。
ちょっとした出会いが心地よい。
2024年03月14日
島原天草一揆

中学校では島原天草一揆という単語だけを簡単に習うのかもしれない。
天正遣欧少年使節は高校で習うような習わないような。
多くの人は「サンフランシスコザビエル」「天草四郎」の名前くらいしか知らないかも知れない。
私もそんなもんだ。
天草の地域の穏やかな人々と青い海となだらかな丘を見ているとぼんやりと見えてくるものがある。
この地域の人がどうしてキリスト教を受け入れて迫害を受けてもなお信仰を続けたのかが感覚的に見えてくる。
青い海と穏やかな丘とさらには中央から遠く離れた場所だからこその事の様に思う。
私が言うことはここへ来れば皆さんもわかると思う。
知識の暗記だけではなくて感覚的に理解できると全く違う理解が出来る。
2024年03月13日
特攻隊

鹿児島の知覧特攻平和会館を見学した。
高校の修学旅行で同じ知覧の武家屋敷は見学したがその時にどうしてこちらを見学させなかったのだろうか。
同じ年頃の人が特攻隊となった事を当時に学んだら感じる事は今と違っただろう。
特攻隊の皆さんは大正の終わりくらいの生まれの人が多い。生きていれば100歳くらいになる。言い換えると死ななければ今の時代まで生きる事が出来たかも知れない。
そうなると孫やひ孫が大勢いただろう。
中には色んな方面で活躍した人もいるだろう。
怖かったし、寂しかっただろう。
特攻隊の皆さんの遺書が沢山展示されている。
多くはお母さんに宛てたものだ。
やはりお母さんなんだ。
突っ込んで行くときもきっとお母さんだったのだろう。
気の毒でならない。
仲間との写真を見ると皆さん良い顔をしている。
目が生きている。
表情に嘘がない。
今の人にはない素敵さがある。
のほほんと旅行などしていてとても申し訳なく思う。
2024年03月11日
お葬式も何かの御縁

九州最南端の佐多岬へ向かっていると最果てとか南国とか海とかがしっくりと来る。
パイナップルみたいな木が野生で生い茂っている。山には桜が咲いている。椿の様な花とハイビスカスの様な花が咲いている。
自然が人間から世界を奪おうとしているのがわかる。
佐多岬の少し手前に佐多岬野営場とアウトドアな名前のキャンプ場があった。無料で利用できるそうだ。一見すると密林に囲まれていて人家はないようだった。
新しくキレイな芝のキャンプ場だ。
しかしテントを張っている人はおらず少しビビっていた。
勇気を出してテントを張るつもりで荷物を下ろした。
ふと見ればキャンプ場内の駐車場ではない所に何台も車が停まっている。軽トラやお年寄りの軽自動車ばかりで地元の人だとわかる。
『なんかの集まりか?』少しホッっとして喋りかけに行こうとした。
奥の方を見れば緑ナンバーの黒塗りの車と最果てらしからぬネクタイ姿の男がいた。
『もしかしてお葬式?なんで?』
『ここは斎場か?』
ビビっていると緑ナンバーが出て来てキャンプ場を通って出て行った。
後に続く車はいない。
少しすると残った車でお年寄りが帰って行った。
私の前を数人のお年寄りが歩いて通り過ぎだ。
「こんにちは」
のんきに挨拶すると2人だけが返してくれた。
今のは何だったのか。
やはり亡くなった人が出て行ったとしか思えない。
その後は何もなかった様な自然が支配した。
ネットを見ると近くには10年前に廃校になった小学校もあるようだ。
キャンプ場になっている場所は廃校になった小学校が以前あった場所だと石碑に書いてあった。
『亡くなった方は隣のこの場所の小学校に通っていたのだろう。』
『多分80年とかそこに住んでいたのだろう。』
『初めてやって来た大阪人だか信州人だかの自分がそこで寝るのも何かの御縁かな?』
『夜中に喋りに来てくれても良いけどな。』
何も起こらずに朝になり出発する時に野生の様な道に亡くなった方の名前が黒い縁取りで書いてあった。奥に家があったのだろう。
1時間ほど走ってフェリーに乗るために小さな街に着いた。
フェリー乗り場の手前に葬儀場があった。
何気なく書いてある名前を見て驚いた。
昨日キャンプ場を通って出て行ったお婆さんだ。
明らかにお婆さんだと解る名前だ。
お婆さんが通った同じ道を私も追いかけて来たのだ。
あのお婆さんは二度とこの道は通るまい。
私も二度と通らないかも知れない。
御縁を感じる。
幾つくらいなんだろう。
私の祖母は去年100歳で亡くなった。
『おばあちゃんよりは年下やろうな。』
『母よりは上なんじゃないかな?』
あんな最果ての南国の自然というか野生が支配する場所に80年以上も住んでいたのだろうか。
昔はそれなりに賑やかだったのだろうか。
色んな話しを聞かせて欲しかった。
顔も知らない。
会ったこともない。
私が行ったときには亡くなっていた。
身内はいなかったのかも知れない。
見送りの人は淡々と帰って行った。
2024年03月09日
一番の自慢話

塾の生徒の皆さんやご家庭に自慢話を聞いてもらって喜んでいたのだが塾が終わってしまい寂しい限りです。
一番の自慢話を披露します。
修学旅行では一度も寝た事がないのです。
すごくないですか?
一度も寝た事がないのですよ。
小学校は伊勢に一泊
中学校は戸隠に二泊
高校は九州に三泊
その間に一度も寝なかったのです。
これが私の一番の自慢話です。
移動のバスの中でも寝てません。
夜は毎日誰かを誘って寝ない様にしようと示し合わせました。
たいていは朝方には寝てしまって最後は1人で起きていました。
何故寝ないかと言うと寝てしまうと時間が過ぎてしまって勿体無いからです。
せっかくの修学旅行を寝て過ごすなんて許せません。
学校の2大行事は運動会と修学旅行でした。
ホテルの部屋の配置図を暗記して女子の部屋に行くにはどうするか、どこに教師が立っているかを予想して暗記しました。
高校の修学旅行は大阪南港から鹿児島の志布志までサンフラワーというフェリーで移動しました。
夜中に女子を起こして甲板に出てダンスをしましたね。
昨日も同じサンフラワーに乗ったのです。
しっかりと寝ました。
夜中に甲板に出ましたが寒くてすぐに戻りました。
自慢話は過去のものしかできなくなりました。
2024年03月07日
挑戦と安定

高校入試が終わった。
塾のみんなは全力で臨んだ事だろう。
『この生徒がこの学校であの生徒も同じ学校なんだ。』と多少意外な場合がある。
まだ合格発表はされていないが受験した時点でもそんな印象を受ける。
点数が伸びたかどうかではなくて挑戦したかどうかだろう。
「吉田塾が良いと聞いています」と言って来てくれる人もいるがそれほど点数が上がるわけではなくて吉田塾なんて大したものではない。
前期試験で受かった人を見ても『何故この学校を受けて受験を終えてしまったのか』と思える様な入りやすい高校入試を選ぶ人がいる。
一方でせっかく受かるチャンスがあっても「面接が苦手なので」と受けずにいる人もいる。
地域には普通科の他に工業、農業、商業、の学科がある。そこに行きたいから選ぶというのは正しい。しかし中学のテストで高得点を取っている生徒でそれらを選ぶ生徒はとても少ない。
いわゆる職業科は普通科の進学校よりも入りやすいというのは昔と変わらず残っている。
勉強が嫌いだからという理由で職業科を選ぶのは良いだろう。私もそうしたかも知れない。
昔ながらの序列があるがその是非を言っているのではない。
夏休みくらいに決めた第一志望に挑戦するのか、途中で志望校変更をして入れる所を受けるのかである。
「学校のテストが悪かったから仕方がない。」
が変更の理由だが、もっと悪い人が最後まで諦めずに挑戦する人もいる。多くの人が変更をしてくれたおかげで志願者数と定員がほぼ同じで入試となる事が多い。言い換えれば自分が席を譲って上げて知らない誰かがそこに座るのだ。
挑戦すれば失敗するリスクはある。
それを失敗しない様に頑張るのが良い。
失敗を恐れて挑戦せずにいると頑張らなくなってさらに点数が下がる人がいる。
高校入試は人生で初めて実力で行き先が決まる。
この先の方向が上向きになるのか下向きになるのかはどの高校に入るかではなくて挑戦したかしなかったかではないだろうか。
安定した生活を送りたいのなら挑戦をして成功させていく事を学ぶと良い。失敗しても大したことはない。
2024年03月05日
吉田塾が終わったよ

今日で吉田塾は終わったよ。
最後の日は12人が来てくれた。
明日に受験を控えている人や既に受かった人や2年生も来てくれた。
みんなありがとう。
長年この仕事をしているのでこの時期の印象は春だ。
日差しが暖かく、塾が終わる時間でも外でゆっくりと話しが出来るのがこの時期だ。
それが今日はどうだ。
今年一番と言っても良いくらいの雪が降っていた。
それほどの数ではないので何とか駐車場に車は収まっていたが挨拶をきちんとするゆとりがなくて心残りだ。
一人一人1時間位をかけて喋る事があるがこの雪の中ではそうもいかない。
少しだけ喋って皆さん帰ってしまった。
頂き物に忘れる前に名前をつけた。
ホワイトボードに書いてある過去問題集の点数を眺めた。
これをいつ消すのかが問題だ。
灯りを消して車の雪をおろして滑る様にして最後の塾をあとにした。
淋しいわ〜
もうあの時のあの人達はいなくなったんだから。
2024年03月04日
確定申告

私は学習塾を個人事業主として営んでいる。
給料を貰っているのではないので自分で確定申告をしている。
確定申告には申告する時期が決まっていて高校入試の時期と重なるので大変だ。
元生徒の親御さんが税理士なので依頼する事も考えたが費用がかかれば安い塾代を維持するのが難しくなるので自力でやっている。
始めた頃は何度も税務署に行って教えてもらった。思った以上に親切に教えてくれた。
『自分でもやれる』と思う様になるくらい教えてくれた。
青色申告というのをやると良いと教えて貰ってやっている。
私の場合はお金の出入りが単純なのでやれているのかも知れない。
例えば食堂を営んでいれば日々の食材の仕入れや売り上げの計算が細かくなるのだろう。
私の場合の売り上げは人数✕1000円だ。
仕入れや在庫は無い。
経費は場所代が殆どで他は少しだけだ。
インボイス制度だったり電子帳簿保存法が出来た。
請求書は無いからインボイスは関係ない。
電子帳簿は私のやっている単純なもので良いのかが不安だ。
新年度になって税務署が忙しくなくなったらまた教えて貰おうと思っている
売り上げが小さな私はそもそも青色申告にしなくても良いのかも知れない。
子ども達が扶養家族から外れたのでやはり青色申告のままが良いのか、計算すればわかるのだがそれをやるズクか無い。
去年からはスマホでの申告を始めた。
楽になった部分もあるが何回同じ作業をしたかと思うくらいやり直しばかりだった。
それでも時代には乗っておくべきだろう。
何せ1年ぶりなので前回の事をあまり覚えていない。やり方をメモしておけばよいのだがそんなアナログなやり方はしたくない。きっと無駄な時間を過ごしている。
とにかくやろう。
やるしか無い。
生徒に話している事をそのまま自分に言い聞かせている。
2024年03月03日
連日の卒業

今日の塾が最終回となった生徒が何人かいた。
昨日も一昨日も何人かいた。
明日も何人かいて、残った人も次の日には全員いなくなる。
淋しいわ。
二度と会わない人が多いだろう。
みんな成長したな〜。
こっちは衰えるばかりなのに。
2024年03月02日
吉田塾に入りたい人へ

今は高校受験の人への対応で精一杯で、終わったら自分をリセットして、レベルアップしてから来年度の事を考えます。
しかし時々問い合わせを頂くので書いておきます。
来年度は5月か遅ければ6月のスタートです。
参加してくれる人の見込みがつけばスタート出来ますが誰もいないと出来ないので今のところはスタートの時期をはっきりと言えません。
内容は今年と同じ感じで良いと思ってます。
今年の卒業生の親御さんにアンケートをしています。
60分、週1で任意参加の追加を設けて、学校の教材を使って、各人が取り組むフォローをするという形です。一回1000円でその他の料金はないです。
勉強会には同じ1000円で90分にする時もあります。
アンケートによれば概ね変える必要は無いようなのでそうするつもりです。
入る時の面談をしっかりとします。
ご家庭の方でやるかやらないかを決めて下さい。
私の方でも入ってもらえるかどうかを決めます。
基準はお子さんが少しはやる気があって挨拶や受け答えが出来るか、親御さんはラインなどでマメに連絡してくれるか、自分勝手に休んだりしないかです。
学力は五教科合計点が100点くらいから400点くらいの人に来て欲しいです。
他の人もいる中で特別な対応は出来ません。
個別に会話や指導をしますが周りと協調してくれる人に来て欲しいです。
こんな感じでやろうかなと思ってます…
そのため今は問い合わせを頂いてもお応え出来ません。
ホームページから公式ラインで何なりとコメントを頂ければスタート時期や面談の連絡をしたり、勉強のアドバイスをします。
二学期になれば入れない可能性が出て来ますがお子さんにやる気が出てからじゃないと途中で続かなくなる事もあります。
ご検討の方はとりあえず公式ラインにたどり着いて下さい。
2024年03月01日
季節感と学力

『3月の入りってこんな感じだった?』
今朝の冷たい雪を見て思った。
この仕事を長くしていると季節感が身についている。
3月に入ると春の光が見えてくる。
夕方から仕事に行く日なら真っ暗だった真冬から少し明るい春の兆しを感じた。
受験が直前になり既に受かった人がかなり出て来てどこかに緩い空気が流れてくる。
長靴にスキーの手袋と毛糸の帽子姿の小学生が家の前を足早にかけて行った。
1ヶ月前が真冬の時期だったが今年はそういった完全武装での登校ではなくてやや軽めの冬の格好でのんびりと歩く子どもがいた。
季節の移ろいを細かく感じ取る感性が養われていると勉強や仕事の能力に影響する様な気がする。
世の中で季節感を掴み取る事が難しくなっているからなのかも知れないが高校受験の問題にも感性を問う様なものが出て来ている様に感じる。
ここからは私の偏見ですが、そのためにも部活動は外で運動をするものが良い。出来れば団体スポーツが良い。
歩いて学校に行くのはとても良い。
多少古めで大きなおじいちゃんの家は季節や行事を経験出来て良い。
沢山の人を教えていて感じる事だがそうしたものが下地にある人は勉強に強いし、社会に出てからもさらに強い様に思う。
私自身はできるだけ外に出て自然の中に身を置いて季節を感じる様に心掛けている。
それを楽しいと思える様になって来たし、その時間に集中して仕事の事を考えたりリラックスしたり出来る様になった。
日差しが強くなって来た。
春を感じに出掛けよう。
花粉が問題だけど。