2025年05月12日
家から見える山々

自宅からは沢山の高い山が見えます。
写真は駒ヶ根からならあちこちから見える千畳敷カールです。日によってはロープウェイの鉄塔も見えます。
真ん中の尖った山が宝剣岳です。その少し左が駒ヶ岳です。この山は駒ヶ根市内から見える場所は少ないのです。
宝剣岳の奥にあるのですが我が家からは横から覗く様な形です。駒ヶ岳と並んで日本の100名山の空木岳は我が家の真西なので家からは見えませんが一歩外へ出るとよく見えます。
同じ様に真東で見えないのが南アルプスの仙丈ヶ岳です。これも一歩外へ出ると見えます。南アルプスの北岳や農鳥岳、間ノ岳、赤石岳、聖岳などの日本を代表する高い山が自宅から見えます。中川の陣馬形山や松川の烏帽子岳や飯島の傘山はすぐそこに見えます。
ほとんどが登ったことがある山です。
眺めていると登った時の事を思い出します。
2025年05月09日
混迷する部活動の地域移行

部活動の地域移行が少しずつ進んでいるが上手くいっていないケースも多い様に思う。
「誰がやるのが?」が問題の一つだろう。
その分野の経験がある地域の人が指導者になるのだろうが、実際にやるとなれば簡単ではない。
仕事が終わってからやるのか?
とても大変だろう。
どのくらいの頻度でどの時間帯にやるのだろう?
現役を引退した人がやるのか?
年配の人になればなるほど中学生や親とのギャップが大きく自分の身体もキツくなる。
いずれの場合も自治体や学校との連絡や会議があったりもするのだろう。
大会や試合の段取りもある。
そこまでの仕事をやろうという人が色んな分野で各地にいるとは思えない。
そもそもある分野で中学生に指導出来るほどの能力がある人が沢山いるのか?
自分が出来ても中学生に指導するのはプラスアルファの能力が必要だ。親とのコミュニケーションも必要だ。
各中学のエリアで1つずつくらいの部活動が出来ると良いが近くにやりたい部活動がなければ遠くまで親が送迎しなくてはいけない。
スイミングやダンス、ピアノ教室や書道教室、もっと言えば学習塾と何が違うのか?
入る理由は何もない。
完全に自由となるので部活動の地域移行というよりも部活動がなくなるだけではないのか?
私の子どもの頃や子育ての頃は部活動は学校活動の一環で必ず入るものだと思っていた。
少子化の上に部活動に入らない自由が認められる様になり入らない生徒が増えて部活動の種類が減っている。
やりたい部活動がなくてさらに入らない。
入りたい生徒でもやりたい部活動を見つけるのが難しくなっている。
大きな方向性としてどうするのが良いのか?
教師の仕事が大変だからという理由なら他のやり方はないのか?
運動部と文化部の両方に全生徒が入って活動する。
活動は放課後に限らず授業の一つにすれば良い。
指導は教師だ。
サッカーとか野球とかの部活動ではなくて色んなスポーツをやる。体育の授業をしっかりやるイメージだ。文化部もそうだ。みんなが楽器をやったり料理をしたりする。
全ての子どもがしっかり身体を動かしてしっかり文化的活動をするのが大切だろう。
大会などに出て活躍したい人は放課後のクラブチームに行けるくらいの時間帯で学校の部活動をすると良い。
部活動の試合をどうするかも考えないといけない。
2025年05月05日
塾の人数

あと10日くらいで今年の吉田塾が始まる。
何年やっていてもなかなか緊張する。
他の塾は通年営業なんだろうな。
私もかつてはそうだった。
3月に3年生が卒業すれば一気に生徒は少なくなる。
例えば(火)(木)(金)の週に3回やっていたとして、人数が少なくなればその曜日を減らして週に1回とか2回とかにすれば良い。
私は楽だし、そこそこの人数がいたほうが生徒も楽だろう。
しかしそうはうまくいかない。
皆さん何かと用事がある。
どうしてもこの曜日しか来られないという人もいる。
それで週に3回やる様にしている。
(水)しか空いていないという人がいたが吉田塾とはご縁を作る事は出来なかった。
それなのに塾の生徒に「(水)に来られる?」と尋ねたら極少数しか参加出来ない様なので(水)はやめた。
去年はそのために週に3回にしたところスタートは少な過ぎる人数だったが最後は多過ぎる人数だった。
曜日を増やして対応したかったが出来なかった。
今年はどうなるだろう。
去年のスタートは(木)が一番少なかったが今年は(木)に集中している。
(火)と(金)はガラガラだ。
他の塾はどうなんだろう。
もっと人数が少ない塾だと曜日を決めるのが大変だろうな。
何曜日にやるかは塾に人を呼ぶのに重要な事だ。
2025年04月11日
貿易摩擦

日本は自動車を製造して売る加工貿易をすることで、大きな利益を得てきました。 原料を輸入し、そこから材料を作り、製品に加工して輸出する貿易を「加工貿易」とよびます。
子どもの頃にこう習ったが、日本が大きな利益を得るのであればどこかの国が大きな利益を失っているのではないかと思った。
アメリカの人たちが日本の自動車をハンマーで叩き潰している映像をテレビで見たがかなりショッキングだった。
誰かが一生懸命作った自動車なのにかわいそうだと思った。
それが「貿易摩擦」らしい。小型車が欲しくなったアメリカの人にアメリカの車が届く前に日本から買ってしまったのでアメリカで車を作る人が怒ったのだろう。
『買っているのはアメリカ人やろ?アメリカ人が日本の車がエエから買ってるんやろ?なんで車に八つ当たりするんや?』と思った。
『加工貿易なんて永遠には続かない。アメリカの人に喜ばれる車をアメリカ人が作ったら貿易摩擦はなくなる。日本は大きな利益を得られなくなる。』と思った。
社会人になり輸出入の仕事に就いた。
『中国のサトイモはどうしてこんなに安いのか?』
人件費が安かった。しかし日本がドンドン買いに行けばドンドン高くなる。沿岸沿いの地域で買っていたのが安い人件費を求めて内陸に買いに行く。
せっかく仲良くなって、日本向けの製品を揃える事を覚えて貰ったのにまた新しい人を探しに行く。
為替が変わればちょっとした努力ではカバー出来ないし、逆に大きな利益にもなる。
『世界で利益の奪い合いや』と思った。
アメリカの人は安くて品質の良い日本の車や中国の製品を買えなくなったらどうするのだろう。高くなったそれらを買うのか、それとも金額的に魅力が出て来たアメリカの製品を買うのか?いずれにせよアメリカの人が一番困るやろ。
今の日本人の豊かな生活は世界の人のお陰があるからだろう。もし貿易がなくなり鎖国になったら日本人はとても貧しくなるのと違うか?
アメリカ人は困らないのかな?
2025年03月27日
地球が火星の様になる

子どもの頃に読んだSF小説に「地球の気候が火星の様になる」と書いてあった。
暑い日はとても暑く寒い日はとても寒くて我々は今の様に暮らす事が出来ないということだ。
外に出るにはイラストの様な防護服か宇宙服の様なものを着なくてはいけなくなる。
建物から地下を移動し他の建物へ行く。
そんな日が本当に来るのかも知れないと思う人が少しずつ増えているのではないか。
今日はどうしよう?
山登りやジョギング、ウォーキング、なんかしたら花粉か黄砂にやられる事間違いない。
紫外線も強力だし、風が強い日は歩くのさえ危険だ。
先週はまだ雪が降っていた。
都会の様な地下街をウォーキングするのがよい。
関門トンネルや信濃川河口トンネルは地元の人のウォーキングコースになっている。
でも密閉された空間はコロナやインフルエンザが心配なのでやはりマスクは必要だろう。
青空の下でのんびり過ごす事がとても贅沢なんだ。
地球は火星よりも厳しいのかも知れない。
2025年03月24日
私はより一層おとなしくなります
山陰地方の山口、島根、鳥取は良かった。
兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

兵庫、京都、に入ると日本海側なのにやかましい。
週末だから大阪辺りの家族連れが多いのだろう。
それにしてもやかましい。
ガキもおっさんもおばはんも、
自分らだけが騒いで楽しんでる。
ガキはやたら走り回る。
周りの迷惑なんて知ったことではない。
見ていて気分が悪い。
そんなヤツがアチコチにいた。
大阪に帰るともっと騒がしいのだろう。
駒ヶ根で良かった。
静かが良い。
でも周りの人は「吉田はやかましい」と言ってることだろう。
大阪のクラスでは一番騒がしく、一番走り回っていて、
一番鬱陶しいヤツだった。
駒ヶ根でかなりちゃんとして来た。
それでもあいつら見ていたら『もっといい子にしよう』
と思う。
塾の皆さん、よりジェントルマンになった私を見てください。

2025年03月23日
大山は凄かった

鳥取県の米子という街で大山が見えた。
想像していたよりもずっと立派で大きくて、まさに伯耆富士と呼ばれるだけのことはある。
標高は1700メートル少しなので長野県の山と比べると高くはない。
しかし独立峰なので富士山の如くとてもかっこいい。
『よし、あれを見に行こう』と思った。
山を登るのではなくてもっと近くで見ようと思ったのだ。
雪道で行けそうにないなら早めに戻れば良い。
大山寺というお寺まで行こうと計画した、
途中の道はずっと乾いたままだが、道の周りはドンドン雪が増えている。
『このまま行けるのか?』
と思ったら大山寺の駐車場に着いた。
駐車場はほぼ雪の壁に囲まれていた。
参道も雪の壁で進むにつれて壁は高くなり道は細くなってきた。
最後の階段はほぼ氷の道だ。
辿り着いた大山寺は衝撃だった。
本堂がほとんど見えない。

信州に住んでいてもこんなに凄いお寺は初めて見た。
このお寺の標高は駒ヶ根の高速道路くらいしかない。
それなのにこんなに積もるとは驚きしかない。
北西の強い季節風が海の水蒸気が雪になり、それを大山にぶつけるのだ。
本堂から駐車場までの階段は手すりをつかんで後ろ向きに下った。
2025年03月22日
バイパスを作ってください

中国地方の海沿いをグルリと車で走っている。
思ったよりもスムーズに走る事が出来る。
バイパスが整備されているのだ。
大都会の広島市でさえ無料のバイパスが高架で通っている。
小さな町がポツンとある山陰地域は高速道路を作ろうとしていて途切れ途切れなので無料区間が多い。
高架のバイパスは信号や踏切がなくて渋滞も少ない。
昔、バイクで広島バイパスを通ると捕まると言ったやつと旅先で会った事がある。原付ではなくてバイクだが、当時はアチコチで車は通れるがバイクは通れないというバイパスや高架道路があった。大阪の一般道でバイクに乗っていて渋滞に巻き込まれた事があった。トラックのすぐ後ろで止まったり進んだりを繰り返して高架道路を過ぎると取り締まりがあって捕まった。あんまりやろ。
長野県にはバイパスが少ない。松本は広島よりもヤバいかも。諏訪でさえも渋滞が激しい。
駒ヶ根はバイパスが出来て随分良くなった。
長野県もバイパスを作ってください。
日本中から、世界から人が来てドライブするのに長野県は最高じゃないですか。
渋滞さえなければ。
2025年03月20日
卒業した学校が廃校になるとイヤやな

旅をしているとこの時期は卒業式シーズンだと気がつく。
塾の皆さんも卒業式を終えただろう。
旅をしているといつも思うのは廃校が多いということだ。
『全く人の気配がないこの辺りにも学校があったということはさぞ賑やかだったのだろう』ということだ。
学校どころか子どもなんて1人も見かけない。
時々見かける年配の人はあの廃校の卒業生かも知れない。
卒業した学校が廃校になるとイヤだろうな。
自分の事を考えてみたが廃校にはなってないが随分と人は減っている。
大阪の40万都市でもそれなので多くの人は卒業した学校が廃校になる心配がある。
沢山の笑顔と涙があったはずなのに、、、
2025年03月18日
次男まであと僅か17㌔

「冬タイヤ装着」高速道路の表示を見て驚いた。
聞いたことのないインターチェンジの間と書いてある。
『どこやねん?』とビビりながら走った。
タイヤはもう夏のタイヤに換えた。
今朝広島ではほんの少しだが雪が舞った。
天気が悪いのでのんびり観光する気にもならずにビビりながら走った。
気が付くと九州に来ていた。
関門大橋を渡ったのだ。
ここで暗くなったので門司港近くの宿にした。
北九州には次男がいる。
ネットで調べるとあと僅か17㌔で次男がいるはずだ。
しかし雨で夜で小倉の大都会を運転する気がしない。
広島の大都会を抜け出して宮島の観光をした事もあり疲れた。
ラインで連絡をしたが駒ヶ根から連絡をするのと変わりはなかった。
2025年03月17日
27階の部屋から原爆ドームを見おろす罪悪感

ホテルの部屋は27階だ。
とても景色が良くて感動。
遠くに海が見える隣のイベント会場は元の広島市民球場だ。
そして原爆ドームが真下に見える。
爆心地はその隣で、平和記念公園があって資料館も見える。
写真の手前にある黒っぽいビルがおりづるタワーでその右が原爆ドームだ。
最高の立地にうっとりとする。
チェックインのあとで原爆ドーム、平和記念公園、平和記念資料館、を見た。
テレビで観るのとは違い実際にこの場所に起こった悲惨な状況に心が痛む。
自分の親世代の子ども達の姿は見るにキツイ。
部屋に戻るとそれらを上から見おろす。
『見下ろしても良いのだろうか』
と思う。
このホテルの場所でも亡くなった人が沢山いるだろう。
なんにも悪くないその人達が突然亡くなって、
なんにも偉くない自分が上からその場所を見下ろしている。
『これってあかんのちゃうか?』
だからと言って低いホテルに泊まるとか、他の場所に泊まるとかをしても意味はない。
白人を中心に物凄く沢山の外国人がいた。
『外国人だから、アメリカ人だから、日本人だから、とそれぞれで感じ方は違うものだろうか。』
夜遅くに雨が降っていた。
霧のようなものに煙った原爆ドームはずっと光が当てられていた。
『どんだけ辛かったことか』
2025年03月16日
海が目の前の宿


海が目の前の宿で朝を迎えました。
昨日からずっと雨です。
それでもそれはそれで雨音が心地よいです。
海まで5メートルくらいかな。
こんなに近くで泊まるのは初めてです。
昨夜は津波の被害を受けた方のドキュメンタリーをテレビで見たので怖い気持ちはありますがやっぱり海に憧れます。
瀬戸内海の小さな島にある宿です。
すぐそばに学校はありますが営業終了しています。
のどかな島です。
驚きは1泊素泊まりで1人3300円です。土曜日はどこの宿も高いのにたったの3300円です。
個室にはエアコンとテレビがあります。
キチンと掃除されています。
地図にあるように広島の呉市の沖合いにある島ですが橋で渡る事が出来ます。
元々は普通の民宿だった様でその厨房を自由に使えるので食材を持ち込むと良いです。
もう一度見てきます。
訂正です。海まで3メートルです。
潮が満ちてきた様でさっきまで見えていた石が隠れてしまいました。

2025年03月08日
無職の恐怖

間もなく塾が終わる。
同時に私は無職となり収入はなくなる。
これはなかなかの恐怖だ。
自分の居所というか役割りというか、
とにかく何もなくなる。
108歳の散髪屋のおばあさんがギネスに載ったらしい。
街の食堂にはかなりの年配の人が働いている、
しかし多くの人は無職になる。
早期退職も流行っている。
いずれにせよなる時は恐怖と楽しみの両方ある人が多いのではないか。
数年前に四国一周を歩いた時に宿帳に「無職」と書いたことがあった。何となく恥ずかしかった。
「来年度もお願いします」と言ってくれる人もいなくはないが実際に復帰出来るかどうかはわからない。
広い場所を借りて安い料金にしてしまったのでそれなりの人数がいないと復帰は出来ない。実際には誰も来ないかも知れない。身体を壊して出来なくなるかも知れない。沢山の生徒を預かり何もかも自分で決めなくてはいけなくいプレッシャーは大きい。休むと迷惑をかけてしまうのでそれも嫌だ。そうした仕事から逃れられる安心もある。
とにかく来週は無職だ。しばらく消える。
どこかの宿で「無職」と書いてくる。
2025年03月07日
お父ちゃんが帰ってきた

最近動画配信サービスで朝ドラを見ている。
何故か2つのドラマを並行して見ているので話しがこんがらがってしまう。
さらにややこしいのはどちらのドラマも行方不明になっていたお父ちゃんが最近になって帰ってきた。
ここからは私が見た夢のはなしだ。
私の父親も帰って来た。
色んな人がやってきて喜んでいる。
私も嬉しかった。
お祭り騒ぎだった。
一通り喜ぶとみんなが家に帰っていった。
残ったのは私と父親だけだった。
「お父さんは帰られんの?」
「帰らへん」
「ずっとここにおるん?」
「ずっとおる」
「なんもする事ないん?」
「なんもない」
『おっさん2人で何をする?』
「え〜〜〜!」
少し重たいと思った。
私の父親は既に亡くなっている。
せっかくあの世から帰って来たのにゴメン。
2025年03月06日
廃校になった小学校

瀬戸町立田部小学校高茂分校(1961年)
瀬戸町立三机第二小学校(1977年瀬戸町立三机小学校)
瀬戸町立大江小学校(同上)
三崎町立松小学校(1977年三崎町立二名津小学校へ)
三崎町立釜木小学校(同上)
瀬戸町立田部小学校(1979年瀬戸町立大久小学校へ)
瀬戸町立神崎小学校(1980年大久小)
瀬戸町立足成小学校(1982年三机小)
瀬戸町立小島小学校(1986年三机小)
三崎町立大佐田小学校(1991年三崎町立三崎小学校)
三崎町立与侈小学校(1993年三崎小)
伊方町立有寿来小学校(2001年伊方町立伊方小学校へ)
瀬戸町立川之浜小学校(2003年大久小へ統合)
三崎町立名取小学校(2003年二名津小へ統合)
三崎町立正野小学校(2005年伊方町立佐田岬小学校へ)
三崎町立串小学校(同上)
伊方町立豊之浦小学校(2009年伊方小へ統合)
伊方町立塩成小学校(2009年三机小へ統合)
伊方町立二名津小学校(2013年三崎小へ統合) 伊方町立佐田岬小学校(2014年三崎) 伊方町立二見小学校(2015年伊方町立九町小学校へ統合) 伊方町立水ヶ浦小学校2019年伊方小へ統合
母親方の家があったのが愛媛県の一番西の端の場所だ。
日本一細長い半島にみかん畑が続く。
小学生の頃は夏休みの大半をここで過ごした。
祖父母の家の近所にも同世代の子どもが何人もいて海で一緒に泳いだり、魚釣りをした。
立派な道路が出来て原発まで出来た。
祖父母の墓はあるが頼って行く親戚もいない。
墓の場所さえ覚えていないかも知れない。
道の駅が出来て沢山の人がただ通り過ぎる。
一歩裏へ入ると静まり返った家々が並ぶ。
私が生まれる前には映画館もあったらしい。
うねうねとした山道を越えると次の集落があり小学校があった。賑やかな声がした。よそ者としては少し怖かった。
幾つもあった小学校はどんどんと統廃合されている。
上伊那にも沢山の廃校があるが祖父母の町にはこんなに沢山の廃校があるなんて知らなかった。
2025年03月03日
学級崩壊から学校崩壊の危機

学級崩壊というのは聞いたことがあるが最近では学校崩壊が起きることもあるそうだ。
学級崩壊は数人のトラブルが原因で起こり、担任教師が解決に追われている間に他への配慮が疎かになってトラブルが拡がっていく。
クラス全体が荒れてしまい授業が成り立たない状況だ。
それでも教頭など他の先生の言う事は聞くし、担任交代やクラス替えなどで収まることがほとんどだ。
学校崩壊はこの学級崩壊が飛び火して学校全体が制御不能になることだ。こうなってしまうと誰の言うことも聞かないし、担任教師全員を交代することも出来ないので大変だ。こうなる前に手を打たないといけない。
息子達が小学校の時にも同時に学級崩壊が起きたので学校崩壊の危機だったのかも知れない。
実はこれを収めたのは私だ。
2人の息子のクラスで人と人とのトラブルがあった。この2つは関係ない内容だ。当事者達と親と担任教師で話しをしたが、当事者が泣きだしたり、学校を休んだり、暴力的になったりで収めることが出来ない間に他の児童のトラブルが起き始めた。担任教師が疲れてしまいクラス管理が出来ていなかったのが広がった理由だと思った。
保護者と担任教師に教頭を交えたクラス全体の話し合いが持たれた。
私の息子達は当事者でも影響を受ける側でもなく、私は仕事のない夜に外野的な気分で何度か話し合いに出た。
「担任教師への電話は夜の10時までにしてあげてください。」と教頭が話した。「そんな事を言ってる場合か?」とヒートアップする保護者。怖かった。
教頭ではなくて校長を交える様になったが解決しないので教育長に訴えようと保護者達は息巻いた。
イザとなれば誰も教育長のところへ行こうと言う保護者はいなかった。何故か昼間に暇そうにしている私が行くことにされてしまった。
「詳細を問うても今さら解決しない。壊れた人間関係は戻らない。担任教師は学校としては貴重な人材なので教師のためにも児童のためにも担任替えをお願いします」と私なりに理路整然と話した。
教育長は数ヶ月後の新学期での交代を約束してくれた。
不思議なもので交代が決まったことで交代する前でクラスは落ち着いた。新学期になると何事もなかったかの様だった。
そのためか誰も私を褒めてはくれなかった。
しかし学校崩壊まで進んでしまえば私が教育長と話そうが市長と話そうが無理だろう。
ちなみに校内暴力で荒れていたのは私が子どもの時代だったが恐らくどの学校も似たようなものだった。
『なぜ荒れていてどのように収まったのかはわからない。』少なくとも誰かが何かをして収めたのではなくて時代とともに自然に収まったのだと思う。
沢山のお金と時間をかけて学校そのもの、教育そのものを変えないといけない。150年前に学校が出来た頃と世の中や子どもが育った環境が大きく変わったのに学校は大して変わってはいない。
教師でさえも幼い頃から個室で寝て、少ない家族で育った。わがままも言えるし、贅沢も出来ただろう。
その教師が子ども達に我慢を強いること自体にストレスがある。
集団社会との距離感が昔と違う。
学校崩壊のピンチがあるからこそ良くするチャンスだととらえて真剣に議論するべきだ。
2025年02月08日
大雪

写真は我が家の団地だ。
今日の写真ではなくて21年前だ。
「駒ヶ根はそれほど雪は降りませんよ」
市役所でそう言われた。
冬の信州は白馬や野沢にスキーに行った事しかないので雪が心配で移住を躊躇していた。
移住先に駒ヶ根を選んだのは雪が少なくそれほど寒くないという話しを信じたからだ。
移住した最初の冬から大雪だった。
「私は生まれて40年以上経ってますがこんなに積もるのは初めてかも知れません」と近所の人に言われて
「俺はラッキーなのかアンラッキーなのか?」と笑いたくなった。
それから数年間は毎年写真の様に沢山積もった。
かまくらを作ったり、雪で滑り台を作ったり、大きな坂道を探してソリで滑り降りたり、雪玉を投げ合ったり、雪だるまを作ったり、スキーをしたり、駒ヶ根でも冬の信州を楽しむ事が出来た。
幼い子ども達にとっては素晴らしい思い出だっただろう。
子どもがいなくなり、雪は私にとってはやっかいな存在になった今は幾らも積もらない。
今朝でさえ薄っすらと積もっているだけで雪かきをするほどではない。
私はなんとラッキーだろう。
雪に苦しめられている皆さんには申し訳ないがそう思う。
2025年02月06日
ネパール語

ネパール語講座に初めて参加した。
ネパール人の先生は30年以上JICAの訓練所で日本人に教えていた超ベテランで私の古い知人でもある。
「語学を学ぶうちの20%はカンである」と話してくれた。
私もそう思う。
単語や文法を覚えてそれを繰り返して慣れることが絶対に必要だが、それに加えてカンが必要だ。
カンはひらめきと言えるかも知れない。
我々日本人が日本語を覚えた時にもこのカンを生かしたはずだ。
「私は寿司を食べる」という文を学んだら「寿司」の部分を「カレー」や「りんご」に替える事が出来るし、「私は」の部分を「彼は」とか「吉田さんは」とかに替える事が出来る。
こうして書けば『当たり前やろ?』と思える。
しかしこうしたカンが働かず、「私は寿司を食べる」から発展しない人が多い。
そしてもう一つ、今朝起きて思い起こすと昨夜覚えた事を忘れてしまっている。
『俺って頭が悪いわ』と思う。
強引に中学生の勉強に話しを移す。
カンが働くかどうか?
先生から教えて貰った事しか出来ないと思い込んでいるとカンは働かない。『何とかして答えを出そう』と強い気持ちを持てば働きやすい。
長野県の高校入試はこのカンで解ける問題が多い。
教科書に載っている内容に少しカンを働かせて考えると簡単に解ける問題が多い。
そして一度やっただけで出来る様になるはずはない。
忘れてしまうと取り返すのが大変なので忘れる前に覚えてしまうと良い。
『何とか答えを絞り出そう』と思って解答する練習が必要だが、そうした生徒が減っている。解るか解らないかのどちらかしかない生徒が多い。
以前はめちゃくちゃな解答が多かったのは必死で答えを出そうとカンを働かせるからだろう。
学んだら覚えて使える様にする意識が大事だ。
先生に報いるためにも少し勉強しよう。
それにしてもネパール語の文字は読めない。
2025年02月04日
卵の値上げ

卵10個のパックが300円になると買う勇気がなくなりそうだ。
少し前は100円台だった。
スーパーの特売なんかがあると80円とかで売っていた。
「物価の優等生」と言われるほど安くて安定していた。
美味しくて栄養があってボリュームがある卵が1つ10円程度なんて農家と鶏に申し訳ないと思った。
私が子どもの頃は近所の祖父の家で鶏を飼っていたので卵を貰う事もあった。
高くなった今よりもさらに貴重な存在だった。
市場ではもみ殻の中に並べられた卵は1つ30円でばら売りだった。
食べるのは1日1つと決まっていた。
祖父の家で食べる「卵かけご飯」はなかなかのごちそうだった。
『あの頃に戻っただけだ』と思えば良い。
収入が今よりもずっと少なかった当時の1つ30円と比べるとどうという事はない。
商売で卵を使うわけではない私は1日に2つか3つ程度しか食べない。10円が30円になっても大した事はない。
食材が少し高くなっても仕方のないものは仕方がない。
節約するなら他ですれば良い。
それよりも鳥インフルエンザって何?
昔はそんなのあったの?
殺処分って?
鶏が気の毒で申し訳ない。
人間がそんな事をしても良いものだろうか。
2025年02月02日
飯田

今日は飯田でのんびりしている。
駒ヶ根からは車で30分か40分なので泊まりで来る所ではないが気分転換でありお楽しみである。
飯田は人口が10万人を切っているそうで小さな町だ。
しかし城下町であり南信州の中心都市として栄えた町なのであちこちにその面影があり面白い。
写真の餅屋は古い佇まいだがひっきりなしに客が来て一本110円のみたらしを買っていく。団子ではなくて餅だ。
飯田駅から城趾辺りの旧市街は昭和そのものだ。
市役所の前には小さな動物園もある。
息子達が幼い頃に来たのが懐かしい。
夏は暑く冬は寒く坂が多くて住みにくい町だよ、
と言ってくれたのは案内所の女性だった。
町を愛するが故に『それでも私は飯田が好きなのよ』との気持ちが込められている様に感じた。
市の中心はバイパス沿いの大型店が並ぶエリアに移ったのかも知れない。
さらにこの飯田の郊外にリニアの駅が出来る。
旧市街は今以上に昔の町になってしまうのかも知れない。
『それでも私は飯田が好きなのよ』