2025年04月01日
新入社員の思い出

4月1日になると毎年の様に新入社員だった時のことを思い出す。
本社がある地方都市に180人あまりの新入社員が集められた。私にとっては全員が初対面だ。
不安はなかった。
自信があった。
各部に分かれての新人研修はなんと4月の終わりまでだった。
営業は80人あまりで半数は6人ずつ分かれた借り上げたマンションを寮として使い生活をともにした。
私の同部屋は楽しかった。
研修終わりには会社のバスで送ってくれたが途中でスーパーに立ち寄ってくれるので部屋でまとめて食材を購入して自炊をした。
奈良からの人と布団を並べて寝た。
工場に配属されるのは高卒男子が多くてヤンチャな車を唸らせて出社して来た。
総務は女子が多かった。
中でも広報課や秘書課の女子はレベルが高かった。
この部署の社員とお友達になることが我々営業の最初の目標だった。
秘書課には毎年1人たけ男子新入社員が配属され、社長の運転手を1年間続けるのだった。
この男子と友達になり地元採用のレベルが高い秘書課と広報課に地元を紹介してもらうという作戦がうまくいった。
毎日の研修の後で筆記試験があった。
周りの営業の新人は昼休みにも勉強をしていた。
その隙に私は裏工作をした。
『これが営業の面白さや』と思った。
『彼女を作ろう』ということではない。
何でもかんでも他人と違うことをしたかったので
周りの社員と違う存在でいたかった。
張り切っていたとも言える。
若かった。
2025年03月15日
放浪記

放浪記は林芙美子が書いた小説で広島県尾道を舞台にしたものだ。100年くらい前の事だが「しみじみと感じる」という私に欠けている感情を表現している。
"海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい"はその小説の有名なくだりだ。
私は学生の頃にバイク旅で尾道に来たことがある。大して観光地化されてもなくて坂の下はゴチャゴチャしていた。
船の重油の匂いと鉄工所の作業の音、そして狭い海峡を通る船のエンジン音がゴチャゴチャをさらにゴチャゴチャにしていた。
久しぶりの尾道は随分とスッキリしていた。
卒業旅行だろうか若者がオシャレに観光をしている。
しかし幾つかの観光スポットだけに現れる彼らには不思議な感覚がする。
昔と変わらないのはネコの多さだが、猫カフェやネコグッズなどの人為的なネコが増えた。
ネコ達も心なしかオシャレになった。
2025年03月14日
春は曙

大相撲の春場所をやっている。
楽しみが増えた。
実力が拮抗していて誰が勝つのか予想がつかない。
長野県の御嶽海もまだまだ頑張って欲しい。
大阪に住んでいた頃も大相撲は大人気だった。
貴乃花と若乃花が人気で曙や武蔵丸のハワイ出身横綱も強かった。
夕方の6時くらいに難波の体育館を通りがかった。
ちょうど終わった時間の様で大勢のお客が出てきた。
終わったところなのにすぐに列が出来始めた。
次の日の入場のための列だと知って驚いた。
『ずっとここに住んでるのか?』
と思った。
「春は曙」と言われていたのは春場所は曙が強かったからだ。
数年前に曙さんは亡くなった。
ドイツの三越で武蔵丸と買い物をしていた姿を見かけた事があるが茶目っ気があり、親しみもある人だった。
2025年03月09日
春が大好きです

中学生の頃の春休みに友人達と京都の室内スケートリンクへ行った。
『親と行くんじゃなくて友達とスケートに行くなんてオラもう大人だべ』ととても嬉しくウキウキした記憶がある。
そのスケートリンクでこの写真の曲が流れていた。
「不思議なピーチパイ」竹内まりやだ。
スケートそのものはこの曲の様に踊るような軽やかさではなかったが自分の人生は春の明るい未来が待っていると思った。
「春はええな〜」
中学生の頃は朝刊配達をした。
夜中の3時とか4時に配る。
めっちゃ寒かった。
軍手とか普通のジャンパーしかなかった。
3月になり配り終えたら少し明るくなって嬉しかった。
『もうすぐ春や。寒くなくなるわ』
それからかなり時間が過ぎて駒ヶ根で家庭教師を始めた。
中3の生徒の最終回だった。色んなことを思い出した。
しんどいことの方が多かった。
寂しさと嬉しさがあった。
『嫌になるほど来たこの家に来る事はもうないんや』と思った。
外の空気が少し暖かくなっていた。
『お互いにしんどかったな、でももうすぐ春や』
この仕事を続けていると凄く春が待ち遠しい。
地獄の様な冬休みを終える頃には日が暮れるのが少しだけ遅くなったのがわかる。
受験生が待ち遠しいと思う気持ちよりも私の気持ちの方が強いと思っている。
沢山の生徒がいる塾は新聞配達の時に負けないくらいしんどい。
冬は特にしんどい。
その分春は嬉しい。
嫌だということではない。
しんどいということだ。
今年はなかなか暖かくならない。
それでも明日で終わりで必ず春が来る。
今年も春を求めて暖かい所へ行くぞ。
そしたら早く春が見つかる。
2025年03月02日
教師って楽そう〜と思っていたが、

20歳の頃にバイクで北海道へ行った。
大きな駅前に行くと同じ様なバイク乗りがたむろしていてそのままそこが寝ぐらになるのだった。
安宿に泊まることもあったが大部屋で一緒に寝るのですぐにおしゃべりが始まる。
私の様な無口で人見知りな人には辛い環境だったが、少しは知らない人と喋った。
ほとんどが同じ年頃の人ばかりだった。
バイクだけでなく車や鉄道で来る人もみんな同じ年頃だった。
そんな中で時々大人の人がいた。
大人と言っても20代後半くらいに見えた。
「何の仕事をしてるんですか?」
私はすかさず質問した。
学生でもなければ長期休みを取って北海道に来れないと思ったからだ。
「高校教師です。」
何人かがそう答えてくれた。
夏休みは少しだけ学校に行けばあとは休みだと話してくれた。
その頃の私も教員免許を取る課程で学んでいた。
『学生か終わっても北海道へ来れる』
と夢が膨らんだ。
『社会の先生が社会を知らんでなれるか?』
と思って会社に入ると海外勤務になったのでその後の20代後半で教師になろうかと考えた。
高校の時の担任に相談した。
大阪は40倍くらいの競争率で入ってくるのは甲子園に出たとか帰国子女とか何か特徴のある人ばかりで、それも何年も講師をした後でやっと合格している。
入って来たらもう疲れてる感じですぐに辞める人もいる。
そんな風に話してくれた。
休みの話しをすると
「全然とられへんよ。部活動の指導もある。」
生徒数が減って教師も減らされているが仕事の役は減らないからだそうだ。
『北海道へ行かれへんな』
それだけが理由ではないが楽そうな仕事てはなかった。
今はさらに人が減って先生は大変だろう。
楽をしたい私には無理な仕事だ。
学校の先生のみなさん、子ども達のためにありがとうございます。
2025年02月27日
障害者施設でボランティアをした頃の話し

一度ブログにアップしたものですが、ふと思い出したので少し手を加えて再度アップします。
20代の頃、大阪で市の広報誌にボランティア募集を見かけた。
「話し相手や遊び相手などでも良いので気楽に参加してください」と書いてあったので連絡してみた。
JRの高架下に小さな障害者施設があった。
8人程度の障害者が利用していた。
10代20代の若い人が多かった。職員と他のボランティアは親世代の人が多かったが、私は同世代だったこともあり意外とすぐに仲良くしてくれた。
障害の重い人が多くてほとんどが車椅子に乗っていた。会話のやり取りが出来る比較的障害が軽い人を受け持つことが多かった。
何度かボランティアに行ったが、おしゃべりと散歩の補助が多かった。
同年代の2人の利用者と親しくなった。
利用者の数に対して職員とボランティアの数が足りない日があった。
ただの散歩なので職員にとっては大した問題ではなかった。
仲良くなった2人の車椅子を私が1人で押そうと何故か3人で盛り上がった。
二台を横に並べて押そうとしたがまっすぐ進まない。
縦に並べてみた。
車椅子に乗る人に前の車椅子を押してもらい私がその後ろから押すという作戦だった。
何回かやったがこれもまっすぐ進まない。
車椅子に乗った人も私も一緒になって考えて、そして笑った。
食事の介助もした。
たくさん口の中に入れすぎてむせさせてしまった。
それでもみんな笑ってくれた。
明るくて楽しい人たちが多かった。
そんな利用者の中に私の事をお兄ちゃんと呼ぶ女性がいた。
彼女は他の障害者のリーダーというか姉貴的な存在だった。
車椅子には乗っておらず少し会話をするまでは知的障害があると気がつかないくらいだった。
「お兄ちゃん、うち、売れ残りやねん。」
彼女が突然そう言った。
「え?」
「うち、こんなんやから誰ももらってくれへんねん。」
「お兄ちゃんも結婚してるんやろ?」
「うん」
「うちは誰ももらってくれへんねん。」
「お兄ちゃんゆうてるけどうちの方が年上やと思うわ。」
「うち、三十やで。」
私は何も言えなかった。
「でもお兄ちゃん、いつも来てくれてありがとう。お兄ちゃんと喋れて楽しいわ。これからも来てな。」
あの彼女は今頃は立派な体格の大阪のおばちゃんになっているだろうか。
どこかで見かけてもお互いに気が付かない。
顔も名前も覚えていない。
でもきっとあの時の会話は覚えているだろうな。。。
写真はその当時の大阪城です。
そこから幾つか駅を行った所に施設がありました。
2025年02月19日
恋にならなかった思い出
以前書いたものですが少し手直ししました。
高校三年生の冬だった。
学校のストーブの周りに集まってけだるい時間を過ごしていた。
学校での主導権は下級生に譲ってしまっていた。
部活が終わり、生徒会が終わり、恋も終わり、友人関係も終わり、まるで青春が終わったような寂しさと虚しさを感じていた。
そして目の前に迫った受験や友との別れに怯える日々を過ごしていた。
いつも同じメンバーでいたので弾む様な話題はなかった。
「最近、酒田さん(仮名)が可愛くなったんちゃう?」
誰かがポツリとそう言った。
酒田さんはクラスの女子生徒で、真面目で大人しくあまり目立つ存在ではなかった。
私は話した記憶さえもない。特別美人ということもなく、意識をしたことの無い生徒だった。
勉強が特に出来る訳ではなかったがコツコツやっていた様で就職組ではトップクラスの松下電器(パナソニック)の本社に決まっていた。
「誰かに恋でもしてるんとちゃうん?」
少ししてから俺が何気なくそう言ったもののそれに突っ込んでくる奴はいなかった。
「誰やろ?」
そんな詮索に発展することもなく、また無言のけだるい時間が流れた。
2月になり、登校する機会がなくなったある日、担任から連絡網が回って来た。
「酒田さんのお父さんが亡くなり葬儀に参列する。14日に来るように。」
バレンタインデーだったがワクワクするような予定もなく、参列することにした。
酒田さんは別の中学で家は遠かった。住宅街にある小さなお好み焼き屋をやっていたが食べに行ったことは無かった。
クラスのほとんどが集まったが、同窓会の様な盛り上がりはもちろん無かった。
我が事の様な悲しさもまた感じなくてどこか他人事の様に見ている自分がいてそのことに違和感を覚えた。
あれから長い時間がたった今でも参列したときのことはよく覚えている。
周りの人にしきりに頭を下げるお母さん、遺影を持って黙ってうなだれる酒田さん、泣きじゃくる小学生の弟の3人の姿だ。
小さな店と家を見て『この店で家族を養うのは大変やったやろうな、それも出来なくなるお父さんは辛いやろうな』と思った。
その時は父親が亡くなるなんて我が事として考えられなかったのだが、遺された家族の姿を見て何とも言えない暗くて辛い気持ちになった。
同級生との会話をいくらもしないまま式が終わると家に帰った。「喫茶店にでも行かへんか?」と言うやつさえもいなかった。
その10日後の2月24日が高校の卒業式だった。
就職が決まった奴、進学が決まった奴、これから受験の奴、この日にクラスメイトの進路を確認しあうこともあった。
大きな声での会話や笑い声に満ち溢れて久々に楽しい気分になった。
友達同士で写真を撮りあった。何枚も撮った。
あまり喋ったことが無いような奴とも撮った。
「一生会わない奴がいっぱいいるんだろうな」
そんなことを考えながら沢山の同級生と写真を撮った。
「吉田君、一緒に写真撮ってくれる?」
話したことさえない大人しい女子が二人でやってきた。
「ええよ。」
特になんてこともなくそう答えた。
彼女らは私を促して教室から少し離れたところに行った。
そこには酒田さんがいた。
みんなで撮るのではなくて酒田さんと二人での写真だった。
微妙に距離を置いてポケットに手を突っ込んでぎこちなく微笑む俺がいる。
ニコニコした笑顔の酒田さんは後輩から貰った小さな花束を持っている。
何十年も経った今でも家のどこかにそんな写真はあるはずだ。
「これ、もらって。」
酒田さんから何かを渡された。
家に帰ってから開けてみるとチョコレートだった。
海賊ゲームの様な器にウイスキーボンボンが入っていた。
そこにはカードが添えてあった。
『10日遅れのチョコレートですが食べて下さい。』
そして短い詩が書いてあった。
窓の外の冷たそうな月を見てあなたを想う、といった内容だった。
『この人は頭ええなー』とバカみたいに思ったのが第一印象。
『お父さんが亡くなるってどんなにつらいんだろう。
そんなときも俺の事を考えていてくれたんだろうな。』
そんな風に思うと感動した。
もう会う機会はないのでお礼の電話をした。何を言って良いかわからくて、思いつきで「京都の嵐山に一緒に行こう」と誘った。
少しだけ口紅を付けてイヤリングをして来た。高校生の時からすれば「さすが社会人」という感じだった。
竹の中の小路でイヤリングが取れて笑いながら一緒に拾った。誰がどこへ進むといったクラスメイトの話題しか話すことがなかった。同じクラスにいたがほとんど接点がなかったので盛り上がる話しが出来なかった。
恋に発展することはなかった。何故2回目がなかったのかさえも覚えていない。
高校の卒業式はバレンタインの10日後で覚えやすいこともありこの時のことはよく覚えている。
高校三年生の冬だった。
学校のストーブの周りに集まってけだるい時間を過ごしていた。
学校での主導権は下級生に譲ってしまっていた。
部活が終わり、生徒会が終わり、恋も終わり、友人関係も終わり、まるで青春が終わったような寂しさと虚しさを感じていた。
そして目の前に迫った受験や友との別れに怯える日々を過ごしていた。
いつも同じメンバーでいたので弾む様な話題はなかった。
「最近、酒田さん(仮名)が可愛くなったんちゃう?」
誰かがポツリとそう言った。
酒田さんはクラスの女子生徒で、真面目で大人しくあまり目立つ存在ではなかった。
私は話した記憶さえもない。特別美人ということもなく、意識をしたことの無い生徒だった。
勉強が特に出来る訳ではなかったがコツコツやっていた様で就職組ではトップクラスの松下電器(パナソニック)の本社に決まっていた。
「誰かに恋でもしてるんとちゃうん?」
少ししてから俺が何気なくそう言ったもののそれに突っ込んでくる奴はいなかった。
「誰やろ?」
そんな詮索に発展することもなく、また無言のけだるい時間が流れた。
2月になり、登校する機会がなくなったある日、担任から連絡網が回って来た。
「酒田さんのお父さんが亡くなり葬儀に参列する。14日に来るように。」
バレンタインデーだったがワクワクするような予定もなく、参列することにした。
酒田さんは別の中学で家は遠かった。住宅街にある小さなお好み焼き屋をやっていたが食べに行ったことは無かった。
クラスのほとんどが集まったが、同窓会の様な盛り上がりはもちろん無かった。
我が事の様な悲しさもまた感じなくてどこか他人事の様に見ている自分がいてそのことに違和感を覚えた。
あれから長い時間がたった今でも参列したときのことはよく覚えている。
周りの人にしきりに頭を下げるお母さん、遺影を持って黙ってうなだれる酒田さん、泣きじゃくる小学生の弟の3人の姿だ。
小さな店と家を見て『この店で家族を養うのは大変やったやろうな、それも出来なくなるお父さんは辛いやろうな』と思った。
その時は父親が亡くなるなんて我が事として考えられなかったのだが、遺された家族の姿を見て何とも言えない暗くて辛い気持ちになった。
同級生との会話をいくらもしないまま式が終わると家に帰った。「喫茶店にでも行かへんか?」と言うやつさえもいなかった。
その10日後の2月24日が高校の卒業式だった。
就職が決まった奴、進学が決まった奴、これから受験の奴、この日にクラスメイトの進路を確認しあうこともあった。
大きな声での会話や笑い声に満ち溢れて久々に楽しい気分になった。
友達同士で写真を撮りあった。何枚も撮った。
あまり喋ったことが無いような奴とも撮った。
「一生会わない奴がいっぱいいるんだろうな」
そんなことを考えながら沢山の同級生と写真を撮った。
「吉田君、一緒に写真撮ってくれる?」
話したことさえない大人しい女子が二人でやってきた。
「ええよ。」
特になんてこともなくそう答えた。
彼女らは私を促して教室から少し離れたところに行った。
そこには酒田さんがいた。
みんなで撮るのではなくて酒田さんと二人での写真だった。
微妙に距離を置いてポケットに手を突っ込んでぎこちなく微笑む俺がいる。
ニコニコした笑顔の酒田さんは後輩から貰った小さな花束を持っている。
何十年も経った今でも家のどこかにそんな写真はあるはずだ。
「これ、もらって。」
酒田さんから何かを渡された。
家に帰ってから開けてみるとチョコレートだった。
海賊ゲームの様な器にウイスキーボンボンが入っていた。
そこにはカードが添えてあった。
『10日遅れのチョコレートですが食べて下さい。』
そして短い詩が書いてあった。
窓の外の冷たそうな月を見てあなたを想う、といった内容だった。
『この人は頭ええなー』とバカみたいに思ったのが第一印象。
『お父さんが亡くなるってどんなにつらいんだろう。
そんなときも俺の事を考えていてくれたんだろうな。』
そんな風に思うと感動した。
もう会う機会はないのでお礼の電話をした。何を言って良いかわからくて、思いつきで「京都の嵐山に一緒に行こう」と誘った。
少しだけ口紅を付けてイヤリングをして来た。高校生の時からすれば「さすが社会人」という感じだった。
竹の中の小路でイヤリングが取れて笑いながら一緒に拾った。誰がどこへ進むといったクラスメイトの話題しか話すことがなかった。同じクラスにいたがほとんど接点がなかったので盛り上がる話しが出来なかった。
恋に発展することはなかった。何故2回目がなかったのかさえも覚えていない。
高校の卒業式はバレンタインの10日後で覚えやすいこともありこの時のことはよく覚えている。

2025年02月09日
波止場の亡霊

小学4年生の頃、市内のショッピングセンターで古本市があった。
カゴの中に雑然と並んでいる本を手に取って眺めていた。
ボロボロの表紙の「日本の幽霊」を自然に取っていた。
色褪せた紙に日本各地の幽霊話しが載っていてワクワクしながら読んでいた。
あるページに手が止まった。
愛媛のおじいちゃんの家の話しが載っていたのだ。
それまで活字で見たことのない小さくて何もない町だ。
それなのに突然幽霊話しが、しかも古本に載っていたので驚いた。
港の桟橋で赤ちゃんの泣き声がするという話しだ。
小さな町には桟橋は1つしかないのできっとあの桟橋だ。
夏休み中は毎日朝と夜に私が釣りをしていたあの桟橋だ。
思い起こすと1人っきりで釣りをしていた事も多かった。
全く音がなくて、灯りは灯台とラジオ店の看板と幾つかの水銀燈しかなくて、かなり寂しい事を思い出した。
海で亡くなった赤ちゃんの泣き声がするというのだ。
怖いというのと切ないというのでとても嫌な気持ちになった。
家に帰って母親にその話しをした。
「そんな話しは知らん。」
一言で却下されたが本当になかった話しなのかは疑問だった。
夏休みになってそこへ行ったらおじいちゃんかひいじいちゃんに聞いてみようと思って忘れてしまった。
おじいちゃん達は亡くなり、波止場はすっかり埋め立てられてしまった。
母は覚えているはずもない。
2025年02月01日
ヤクザのOB会に参加していた子どもの頃

小学5年生の頃は魚釣りが大好きだった。
学校が休みの日は朝早くからあちこちの池や川に釣りに行った。
学校がある日は時間があまりないがひとが釣っているのを見に行った。
淀川から続く池に行くといつも大人が釣りをしていたのでそれを眺めたり大人と喋ったりした。
「釣れますか?」と話しかけるのが常だった。
「まあまあやな」と言いながら魚が入ったビクと呼ばれる網を水中から上げて見せてくれる人が多かった。
その池に行くといつも赤い帽子の人がいた。
時には数人が同じ赤い帽子を被って釣りをしていた。
私はその赤い帽子の人と仲良くなった。
「ここはな、深さ3メートルあるんや。どの深さで釣れるかを見つけるのが難しいねん。」
「その日によって違うん?」
「そうや、水温とか天気とか季節とか時間とかでちゃうねん。」
「へ〜難しいんやな」
そんなやり取りをして日が暮れそうになるまで眺めていた。
赤い帽子の人は何人かいたが誰が誰なのかはわからなかった。時には3人4人、時には1人だったがいつも同じ辺りで釣っていたので赤い帽子を見つけると喋りかけた。
どのおっちゃんも相手をしてくれた。
おっちゃんと言っても当時の父親よりもずっと年上で祖父くらいの年齢だったかも知れない。
「しょんべんしてくるから釣っててくれるか?」
そう言われてとても緊張した。
釣り道具屋で見る一本で1万円くらいする浮きと一本で10万円くらいする竿を使っていたからだ。
おっちゃん達は石を組んで足場を造りその上に椅子を置いて釣っていた。
そこに座るととても高くて池に突き出していた。
その上で高い竿と浮きを振り回すのは緊張した。
『底に引っ掛けて浮きを流したらどうしよう?』
『引っ掛かって竿が折れたら逃げるか?』
それでも高級な釣り道具に触れてみたかった。
子どもが扱うには竿は長くてあかんかった。
自分とおっちゃんへの言い訳としてその事を使った。
2度ほど浮きを池に投げてそれでおしまいにした。
いつもの様に学校が終わって池に行ったら赤い帽子のおっちゃん達はいなかった。
池の端っこには赤い帽子ではないおっちゃんがいたのでその人の釣りを見た。
「釣れますか?」
「あかんわ」
「あそこへ行ったらええんとちゃいますか?」
そう言って赤い帽子のおっちゃんが造った足場を指差した。
「あそこでは釣られへん。あれはあの人らが造ったやつやからな。」
「いてへんからええんとちゃうの?」
「あの人らはヤクザのOBやから。」
「そうなん?俺、いつも喋ってるで。」
「知ってるよ、あんたは子どもやからな。」
俺はヤクザのOB会に参加していたわけだ。
『だから高級な釣り竿を持ってるんや。竿を折らんで良かったわ。』
それからはなんとなくその池には行かなくなった。
『中学生になったら勧誘されるかも知れん』と思ったからだ。
2025年01月31日
命の危険を感じた受験

息子の1人は富山の高校を受験する事になった。
赤穂中から他に受ける生徒はおらず準備から送迎まで全て私がやった。
前泊して受ける予定だったが前日は大雪警報が出ていた。高速道路と公共交通機関は止まる様だ。
『どうすんねん?』
147号線を白馬から小谷を抜けて日本海に出るか夏場にはよく通る木曽から安房トンネルを抜けて行くかのどっちかだ。どっちも通行止めになればどうしようもない。
安房トンネルを抜ける事にした。
権兵衛トンネルから木曽を抜けるが途中の境峠は標高が 1480メートルもある。1480って登山じゃん。峠の辺りは1メートル以上は積もっていたが降ってはなくて除雪されていた。急な下り坂は怖かったが何とか通り抜けて、再び上って安房トンネルを抜けた。奥飛騨温泉の辺りはずっと下り坂だが凍りではなくて雪なので意外と楽に通れた。上り下りを繰り返して広い国道41号線に出た。
『もう大丈夫』と思った。
しかしその辺りから横殴りの雪がドンドン降ってきた。激しい勢いだ。ホワイトアウトというやつだろう。
全てがボヤーっとした白で何も見えない。
風も強い。
広いはずの国道が自分が通る幅しかない。
路肩も脇道もチェーンを付ける為のスペースも何もない。
まるで白い溝の中を走っている様だ。
通る車はほとんどない。
いつもあおってくる大型トラックも追いかけて来ない。
たまに来る対向車は真正面から走ってくる。ぼんやりしたヘッドライトを見ながら『あのライトの少し左を通ろう』とするしかない。きっと相手も同じ様に考えているのだろう。止まる様なスピードで通り過ぎる。相手の運転手の顔さえ見えない。道路のセンターラインを挟んで通り過ぎているのか端っこなのかもわからない。
雪はさらに激しくなる。カーナビはあるがスマホはまだ持ってなかった。
情報のない中で通行止めになったら終わりなので行くしかない。そもそも戻れと言われても戻れない。下るしかない。
ワイパーに雪が凍りついて前がさらに見えなくなってきた。それでも車を止めるのは怖かった。
前がほとんど見えない道路に止めるのは怖い。
トンネルの中だけが見通しが良いがそこで止まって雪を落とすのも怖いのでやめた。
ビビりながら走っていると突然雪の壁に突っ込んでしまった。
スリップではなくて緩やかなカーブを直線だと思って突っ込んだ。
ボンネットが短い軽自動車だったので完全に雪の中に入った。ドアを開ける事さえも出来なくて恐怖を感じた。
『俺は死んでも息子は送り届けなくてはいけない。』
『でも俺が死んで息子を届けるってそんな状況はあるか?』一瞬で訳のわからない事を思うと開き直ったのか気合いが入った。
ギアをバックな入れると無事に下がることが出来た。
後ろは何も見えないのでバックをするのは恐怖だった。
「よっしゃ」気合いを入れた。
下がったついでに車を下りてワイパーに凍りついたものを落とした…幅が2メートルくらいになった国道のど真ん中でだ。突然前か後ろから車が来るかも知れない。
その時をピークとして徐々に雪は穏やかになった。
富山市内に入ると風も雪も止んでいて除雪がされていた。
生きてたどり着くことが出来て嬉しかった。
「絶対に受かれよ。もう冬には来たくないからな。」
息子にそう言った。
翌日の受験会場では保護者控え室で待っていた。
隣りにいた女性は地元の人だそうだが昨日の悪天候を41号線で長野県から来たと聞いて驚いていた。『41号線は通行止めだと思っていた。』そうだ。
20人の定員に50人が受験した。受験資格に内申点の下限があり息子はギリギリだったので受験生の中では一番下だという事だ。
面接で受からなければ筆記試験は無理だと思った。
筆記試験の過去問題を見たが息子が解けるレベルではない難しさだった。
その為、面接練習を徹底的にやった。
志望動機は2分以上準備した。普通は30秒程度だろう。
小学生の頃の思い出から将来の世界進出の夢までをストーリーにした。
何回も練習をして俳優の様に気持ちを込める様にした。
他の質問の準備も完璧だった。
一か八かの作戦だ。
幸い息子は合格してくれた。
今日は地元の伊那西高校の受験だ。
きっと皆さん緊張しているだろう。
一生の思い出になる。
悔いなく臨んで欲しい。
2025年01月29日
初めての海外はロンドンだった

空港は同世代の学生でいっぱいだった。
多くの人が卒業旅行で海外に行った。
私はヨーロッパフリー20日の卒業旅行だ。
往復の飛行機だけを予約して宿は現地で何とかしようと思った。
「地球の歩き方」というガイドブックを暗記するほど読み返し、それ以外のガイドブックや旅行パンフレットを見てイメージを入れて行き先の計画を建てた。
飛行機はほぼ日本人学生だった。
「機内食に出てくるスプーンなどを持ち帰ると何かと便利だ」とか「ブランケットも便利だ」とかクチコミを信じているやつが多かった。
アラスカのアンカレッジに立ち寄り私たちの飛行機はロンドンを目指した。アンカレッジを飛び立つと行方不明になっている『植村直己さんはこのどこかにいるのだろう』とずっと雪原を眺めた。やがて暗くなるとオーロラが見えて感動した。
ロンドンには早朝に着く予定だ。未明のロンドンを上空から見るとオレンジ色の灯りが連なっていた。『なんと美しいのだろう』と窓に顔を付けて眺めた。写真を撮ろうとしたが上手く撮れない。
感動で手が震えているのか飛行機が小刻みに揺れているのかさえわからない。
巨大な飛行機が着陸するのもワクワクでいっぱいになった。
「サイトシーイング、スリーデイズ、」と何度も暗唱したカタカナ英語で税関を通り抜け、荷物を受け取った。
早朝のロンドンヒースロー空港は薄暗く人が少なかった。
突然不安で震えそうになった。
『そうだ、まずは両替だ。』
用意して来た旅行小切手を両替窓口でポンドに替えた。
地下鉄に乗ってロンドン市街地に来た。
『うわ〜外人ばっかりや。』
2月の早朝のロンドンは薄暗くて美しくなかった。
周りの外人はみんな悪い人の様に見えた。
目つきが鋭くみんなが俺の方を見ている。
めちゃくちゃ緊張していた。
『外人は俺の方や。こんな貧乏くさい学生を狙うやつはおらんから落ち着け、』
と自分を冷静にしようとした。
大阪や京都が地元なのだが当時は外国人を見ることさえ少なくて「外国人コンプレックス」の様なものがありひたすらビビっていた。
「タワーブリッジ、ロンドン塔、大英博物館、グリーンパーク、ウインブルドン」などへ行くのは地下鉄を使った。
乗り放題の切符を買った。
地下鉄は大阪よりも深くて木のエスカレーターもあった。
外が寒い為か地下鉄構内で演奏をしている人がアチコチにいた。
狭い通路を沢山歩く必要があった。
幅が2メートルくらいの狭くて長い通路を歩いていると向こうから2人の黒人がこちらへ向かって歩いている。
2人とも2メートルくらいありそうだ。
『怖い』
ケンカをしても勝てないだろう。
走っても勝てないだろう。
アレコレ言っても通じないだろう。
『引き返そうか』
『イヤ、俺は俺だ。逃げてたまるか』
私は道の真ん中を歩く事を決めた。
彼らはやはり190センチはある。
私の右手と右足は一緒に前後していたかも知れない。
彼らは私とすれ違う時に両サイドに避けた。
『両側から攻撃される』と思った。
1人の男が私が下げる大きなカメラをチラッと見た様な気がした。
同時に彼らは何かを言った。
私に向けてではなくて2人で何かの会話をした。
「こいつ、ええカメラを持ってるな。奪ってしまうか?」
と相談しているに違いないと思った。
本当は何を言っているのか全くわからなかった。
カメラはバッグに入れておけば良かったと後悔した。
すれ違ったあとはダッシュしようと思った。
『走ったら必ず追いかけてくる』と取りやめた。
『クマじゃないのでそれはないやろ』
とは思ったが速足になっていたとは思う。
『勝った』
彼らの足音が聞こえなくなるほど離れたらそう思った。
『地下鉄は危ないからやめておこう』と思った。
宿は「地球の歩き方」のクチコミがあったところへ行った。
インド人らしい主は愛想悪かった。
『インド人だから英語が下手なのか』
いや俺が聞き取れないのでイライラしたのだろう。
地下で窓がなくてジメジメした部屋は寒かった。
さらに問題は食事だった。
「地球の歩き方」にはチップが必要と書いてあり
それが怖くて行けなかった。
きっとメニューは英語だろう。
「英語の成績は5だぞ」
「イヤイヤイヤ、無理」
「今日こそはマクドに行かずにレストランへ行くぞ」
ロンドンの食事はマクドナルドとスーパーで買った硬いパンしか食べなかった。
その3年後に私はドイツで暮らしてロンドンは営業担当地域になった。
英語は相変わらずさっぱりだったが外国人コンプレックスはなくなった。パンクファッションのイギリス人も黒人もインド人も平気だった。
インド人街でカレーの様なものを食べる事が多かった。窓があるホテルに泊まった。地下鉄や二階建てバスや時にはタクシーに乗った。
「あの時はビビっていたな。俺もエラくなったものだ」
『勝った』と思った。
『ロンドンを制覇した』と思った。
写真はここで会った観光客です
2025年01月24日
俺のアイドルはオリビアだった

塾の中学生達はあまり下敷きを使っていない。
俺たちの頃の下敷きはアイデンティティを表現する大事な道具だった。
クリアファイルの様な下敷きにお気に入りのアイドルの写真を入れていた。
雑誌を切り抜いて入れる事が多かった。
俺のアイドルはオリビアニュートンジョンだった。
信州の人からすれば大阪人はみんな目立ちたがりばかりだと思うかも知れない。
俺はクラスでは一番の目立ちたがりだった。
いや目立ちたがりよりも変人だったかも知れない。
周りの人と違う事をしたかったのだ。
その事がオリビアニュートンジョンとなった。
クラスメイトのアイドルは10代の人が多かったが、オリビアニュートンジョンは自分の母親世代に近い人だった。
金髪で青い目の外国人への憧れもあった。
習いたての英語の筆記体で何かを書くのもカッコ良いと思った。
「オリビアを聴きながら」という杏里が歌う曲の「オリビア」がこの人だと知って『カッコ良い』と思った。
「オリビアニュートンジョン」という名前も「カッコ良い」と思った。
この記事に使った写真は当時の下敷きのものとは少しイメージが違う。
ジーパンを履いて馬が一緒に写っていてアイドルとは違う
アウトドアな「カッコ良い」写真だった。
ジーパンはジーンズとなり、デニムと言う様になった。
オリビアニュートンジョンは亡くなった。
俺も中学生ではなくなった。
授業中にボーッと下敷きの写真を眺めていた時の感覚や空気が懐かしい。
塾でボーッとしている奴の気持ちはわかる。
2025年01月13日
日本住血吸虫症

私が生まれる何年か前の事だろう。
大阪の祖父母は愛媛の西の端にある母方の実家への挨拶の為に出かけた。汽車に乗り船に乗り、嫌になるほど汽車に乗って疲れ果てたあと小さな船に乗った。崖が続く荒れる海に揺れる船はとても怖かった。乗っている人は荒っぽくて話す言葉はわからず『海に投げ捨てられるんじゃないか』と怯えたらしい。
英語の祖父母は大阪に挨拶に来た時は財布を取られない様にしっかりと抱きしめていた。大きな建物と沢山の人に驚いて喋る言葉は荒っぽくて怖かった。
この頃の日本には地方病というものがあり、中でも山梨の地方病は人々を悩ませた。体はやせ細り腹だけが出てくるものだ。田んぼやその用水路に住む貝が感染源で起こる病気だとわかり無くなるまで100年ほども人々を苦しめた。
令和の今は日本各地へ行っても言葉は通じる、というよりも年配の人以外はほとんど同じだ。同じチェーン店があり、風景は似通っている。「風情がない」と言えなくもないが先人が様々な困難に打ち勝って住み良い日本にしたのだ。
各地の博物館に行くとそうした歴史がわかる。
興味深く学べるよ。
2024年12月28日
昭和の回転寿司

本家の伯父は田んぼを売った。
田んぼが広がる交差点の場所だったが周りには田んぼしかなかった。
「あんなとこ買った人は何するんや?」
「寿司屋にするらしいぞ」
『田んぼの真ん中に寿司屋作ってどうすんねん?』
不思議だった。
寿司屋というよりも流行りのファミレスの様な建物が出来た。
新聞チラシでバイト募集があった。
「たちのお寿司やさんと同じものが安く食べられるお店」とか書いてあった。
良くわからないが皿洗いくらいには雇ってくれると思った。
面接に行くと若い店長がチラシと同じセリフを熱く語った。「吉田君にはお寿司を握って貰います。」と言われて固まった。
おにぎりさえも握った事がなかった。
「しっかり教えるから」と説得された。
25グラムのシャリをつかむ練習を何度もやらされた。
手や体やそこら中がご飯粒だらけになった。
何時間かやると出来る様になった。
他にも何人かバイトがいて、握っている人、バック作業、ホール、等に分かれて練習をしていた。
半日練習すると次はプレオープンとして客の前で寿司を握った。高校生の私はさすがに緊張した。「いらっしゃいませ」とか色々言わされるがそれも恥ずかしかった。
バイトは軍艦とか、玉子とか、カニカマとかノリで巻いてごまかせるものが担当だった。
深夜の1時までの営業だった。
年末の今の時期は物珍しさからか2時間待ちがずっと続いた。私はベルトと呼ばれるレーンの中で6時間立ちっぱなしの日もあった。外へ出る時に膝が笑う経験を初めてした。
そのくらいやるのであっという間に握るのが上手くなった。
余った寿司は持帰り夜中の2時とかに友人宅にまでお裾分けをした。
パジャマ姿の友人の母親に言われた。
「吉田君、困るわ〜こんな時間に持ってきて、おばちゃんまた太るわ〜、山芋うずらも入ってる?」
寿司が回るのを見ながらタバコを吸う客も当たり前だった。
ウェイティングが上手く行かずに客がケンカをしたり、ホールの女の子を叱りつけたり、数台分しかない駐車場でケンカをしたり、皿洗い機が詰まって皿が吹き飛んで割れてしまったり、トイレが詰まったり、シャリが間に合わずに、何もないベルトの中で呆然と立っていて、炊きたてのご飯でやけどしそうになって握ったり、マグロがカチコチでシャリから滑り落ちてばかりだったり、店長が寝坊して来なかったり、暴走族が乗り込んできたり、本業の人が植木のレンタルを申し出て来たり、友人が閉店間際にやって来てわさびをシャリの中に団子にして入れてやったり、「皿はレジに持って行って数えて貰うシステムや」と友人をだましたり、何もかもが楽しかった。
一瞬社員になろうかと思ったくらいだ。
沢山のバイトの女の子達は可愛かったし、、
2024年12月15日
赤高生の郵便配達員

移住してきた頃は毎年今くらいの時期になると自転車に乗った郵便配達のバイトらしい人達を見かける事が多かった。
よく見たのは「赤穂高校」と書いたジャンパーを着たボウズ頭の人達だった。
寒い中を真っ赤な顔をして白い息を履いて必死に坂を登る姿は蒸気機関車の様だった。
横からの雪を受けて半分白くなって自転車をこいでいた事もあった。
沢山雪が降った次の日にゼリーの様にジュルジュルになった水たまりを足首まで浸かって自転車を押していた事もあった。
私も高校生の頃は年末年始の郵便配達のバイトをした。
駒ヶ根よりは随分と大きな街だったので移動距離は長かった。人が沢山住んでいる駒ヶ根の地域と同じくらいの坂道は大阪にもあった。
それでもしんどいと思う程ではなくて楽なバイトだった。
駒ヶ根は大阪と比べるとずっと寒い。
その分はずっと大変だろう。
赤穂高校の野球部の生徒に勉強を教える事になった。
郵便配達の事を話した。
みんなでバイトをして稼いだ金で野球の道具を買うらしい。素晴らしい事だ。
体力づくりにもなると話したが、「その程度じゃ足らんやろ」とそっちはオマケ程度だと思った。
いつの間にかそういった人達を見かけなくなった。
今年はさらに「年賀状仕舞い」が進むようなのでもうあのバイトの姿は見られないだろう。
野球道具のお金は親が出して、生徒は勉強に追われて学習塾に通うのが今時の年末年始なのかも知れない。
あの頃の学生の方が沢山の経験が出来たはずだ。
2024年12月12日
日本語のアルファベット

「英語のアルファベットは26個しかないけどドイツ語は30個もあるからドイツ語の方が難しいんだ。」
昔、ドイツ人の友人が半分冗談で半分まじめにそんな事を話した。
実際はドイツ語も26個でイラストの様なのはアルファベットの派生であって数には入れないらしい。
「ところで日本語のアルファベットは幾つあるんだい」
何故か少し上から目線でそう言ってくる。
『50音って言うから50個かな?』
と思って「50個あるよ」
と答えると急に乗り出して来る勢いになった。
「マジか?」
『ちょっと待てよカタカタもあるぞ』
「100個かも知れない」
と言うと、キョトンとし始めた。
『待てよ、漢字もあるじゃん』
『漢字って幾つあるんだろう?』
「待って、1000?いや、10000?」
そう言うと
「ウソだろう?どういう事だ?」
とめっちゃ乗り出して来た。
日本語に少し興味があり、片言は喋るが読む事は出来ない友人だが、私が貸した日本の旅行の雑誌を真剣に眺めた。
「確かにコレとコレは違う。みんな違う様に見える。信じられない。」
と言い出した。
「君はその10000個を全て読めるのか?」
「いや〜、多分無理。」
「じゃ、幾つ読めるんだ?」
「う〜ん、わからない。」
「じゃ、この本のアルファベットは読めるか?」
「読める」
「日本人は誰もがコレを読めるのか?」
「多分読める。」
「負けた。」
日本人は勝ったのだろうか?
2024年12月07日
タイヤ交換

昨日は軽自動車のタイヤ交換をしてもらった。
駒ヶ根に来てからずっと自分で交換していたが去年から「駒ヶ根タイヤ」でしてもらっている。
素人がタイヤ交換をしてあとでタイヤが外れる事故が多いとニュースで見たからだ。
プロの仕事は安心感があり、交換後の心配がない。ここの人達は特に信頼出来て、作業を見るとスマートだ。
店長はもう随分前からここで働いている。
タイヤを買いに行くと親身で丁寧に教えてくれて、売りつけようとする「大阪商人の様ないやらしさ」がない。
若い方の人も頭が良い。
数ヶ月前に普通車のタイヤの相談に行ったら店長はお休みだったので、この従業員と話すことになった。
「このメーカーのこのタイヤは静粛性が高いです。 」とか細かく教えてくれる。
「こちらのタイヤはミライースで履いてもらっているタイヤです。」と私の軽自動車の車種と買ったタイヤの事を覚えていた。
自分の名前を言ってもないし、パソコンで顧客リストを見て話しているのでもない。
ミライースのタイヤの商談は店長とした。脱着の時はこの人も一緒に作業をしてくれたかも知れないが、なぜ覚えているのだろう。
『工場等の作業員よりもオフィスで働いている人の方が頭が良い』なんて考えている人がいるかも知れないが、思い上がりで偏見だ。
5.6人の人が交換を待っているが2人の従業員でテキパキとさばいている。どの車が誰ので、どの順番なのか、間違わずにやっている。
電話は掛かってくるし、次々と新しい客が来てその受け付けや相談もやっている。
『俺もプロの仕事をしないと行けない。』と改めて思う。
これで2500円は安い。
2024年11月26日
モロッコの物乞い女性

写真は当時の僕です
20代の頃、年末年始を北アフリカのモロッコで過ごした事があった。
写真の様にレンタカーを借りてサハラ砂漠や大西洋岸の街を旅して周った。
海沿いのリゾート地にはヨーロッパの観光客が沢山いた。
一人旅の私は観光客の水着姿を眺めたり、海を眺めたりしてボーっとして過ごした。
ふと1人の物乞い女性に目が行った。
20代だった私と同世代に見えた。薄汚れたワンピースで片膝を立てて座っていた。
髪はボサボサで長く、浅黒い肌で少しシワがよった様な顔で私と同様に観光客と海を眺めていた。
目の前には空き缶を置いて誰かが小銭を入れてくれるのを待っている。
金髪でビキニ姿のヨーロッパ人観光客女性よりもその物乞い女性の方がセクシーに見えた。
ヨーロッパの街では物乞いは珍しくはなかった。
多くは年配の人だったが若い人もいたので、この女性に興味を持ったのは年末のモロッコだったからかも知れない。
大阪城公園には沢山のホームレスがいたが物乞いではなかった。
ヨーロッパで物乞いを見た時は多少のショックだった。
目の前にいる彼女に小銭を与える勇気はなかった。
時々チラッと目を向けるしか出来なかった。
突然彼女に話しかけた。
片言の英語で道を尋ねた。
何故そうしたのかはわからない。
彼女は無視をするか、現地の言葉でののしるかのどちらかだろうと思いながら話しかけた。
ところが彼女はやはり片言の英語で丁寧に道を教えてくれた。
その事に私はショックを受けた。
上から目線で彼女を見ていた自分が恥ずかしかった。
当時の日本は裕福な国でヨーロッパでも一目おかれる事が多かった。なかでも自分は企業の駐在員としてドイツで暮らしていた。
貧しいモロッコのましてや物乞い女性を自分よりもずっと下の人間の如く好奇の目で見ていた。
モロッコはフランスの植民地だったのでフランス語を話す人は多いが、英語を話すなんて驚いた。
しかもちょっとエッチな考えで彼女を見ていた自分はなんと卑しいのだろうと憂鬱になった。
「メルシーボクー、オールボワール」
と自分が知るほぼ全てのフランス語で「ありがとうございます。さようなら」
と言うと
「バーイ」と答えてくれた。
よほど彼女の目の前の空き缶に小銭を入れようかと思ったがその事がさらに自分を凹ませると思って何もせずに立ち去った。
少し歩いてから振り返ると彼女はそれまでと同じ様に海岸に戯れるヨーロッパ人観光客と海を眺めていた。
「カッコええな〜」と思いながら海岸を去った。
2024年11月24日
ギヴミーチョコレート!

昭和の時代は大阪には外国人はいなかった。
きっといたのだろうが私は見たことさえなかった。
そのくらい少なかった。
大阪と言っても市内ではなくて田舎だった。
田舎と言っても松本よりはずっと沢山の人が住んでいる。
近所には外国語大学もあった。
それでも外国人を見たことはなかった。
韓国人や中国人で普通に日本語を喋る2世とかの外国人はいたのだと思うが、子どもの私にとっての外国人はイラストの様に肌の色や髪の色や目の色が異なる人のイメージだった。
小学4年生の遠足で京都の植物園に行った時に初めて外国人を見た。林の中をカップルで散歩していた。
「外人や〜外人や〜」
「みんな〜集まれ〜外人や〜 」
外国人カップルを取り囲んで大騒ぎになった。
「ハロー」
と恐る恐る言ってみた。
「ハロー」
その外国人は笑顔で答えてくれた。
「うわ〜ハローって言いよった〜」
と大変な大騒ぎになり
「ハロー、ハロー、」とみんなが口々に叫んだ。
その外国人はにこやかに相手をしてくれた。
戦後すぐにGHQが日本にやってきて沢山の日本の子どもに囲まれている映像を見たことがある。
「ギヴミーチョコレート!」
と子ども達が叫んでいるその映像を見ると京都植物園でのあの日の外国人との出会いを思い出す。
2024年10月31日
まだ素朴だった頃のハロウィン

昔々私はドイツに住んでいた。
その日はお休みだったのだろうか、午後のまだ明るい時間に玄関のブザーが鳴った。
開けてみるとドイツ人の男の子が3人立っていた。小学校の高学年くらいだろうか、いきなり外国人の私が出てきて驚いた様子だったが何も喋らず「せ〜の」といった感じで何やら歌い出した。
訳が分からず私は彼らの歌を聴きながら必死で事態を飲み込もうとした。きっと怪訝な顔をしていたに違いない。彼らは怖かっただろう。
数日前にたまたま読んだドイツの日本人クラブの会報を思い出した。
『何とかって言うお祭りで、歌う子どもにお菓子を上げるヤツだ』と思い出した。
彼らが歌い終えると「ちょっと待って」と私は日本のお菓子を持って来た。あられの様なものの小袋だったと思う。日本から取り寄せたのではなくて現地の日本スーパーで買ったものだ。
『こんなんで喜ぶか?』と思ったがどうせなら日本のお菓子が良いと思ってそれしかなかったのだ。
かっぱえびせんを食べさせてやりたかった。
「日本のだよ」と言って渡すと3人ともホッとして嬉しそうだった。
「日本のお菓子は美味しいんだ」と1人の子が言った。
「食べた事があるの?」
と私が聞くと
「ない」
と答えてみんなで笑った。
「ありがとう」
「ここの人は親切かい?」
と隣のドアを指差して聞いてきた。
「親切なドイツ人のおばあちゃんだよ」
と言うと
「ありがとう、バイバイ」
と言ってくれた。
玄関を閉めて少しすると外から彼らの歌声が聴こえてきた。
まだあの頃は日本でもドイツでもハロウィンは今ほど知られてなくて商業的ではなかった。
とても暖かい気持ちにさせてくれた彼らに感謝だ。