2020年04月29日
2000円家庭教師はいかがですか?
1回2000円で家庭教師に行きます。いかがでしょうか?
学校が再開される見通しが立っていません。他人と関わる機会が少ないです。
そのため大人も子供も元気がなくなり、色んな体力が落ちています。
学力もそうですが勉強をする体力や気力が落ちています。親も同様です。
そんな人たちのお役に立ちたいと思っています。
私も3月から仕事を自粛しています。
生活のために2000円だけ頂きます。
交通費などは要りません。2000円だけです。
時間は60分です。本当は90分でも120分でも良いのですが、生徒の方に体力がないので無理なく取り組める時間です。
実際は様子を見た上で少し時間をオーバーするかもしれませんが料金は同じです。
対象は新高一以下です。それ以外の人はご相談ください。小学生は専門ではないのですが頑張ります。
3月まで中三生を20人を教えていたのでその辺りの年代が一番得意です。
科目は五教科なら全て可能です。内容は学校からの課題でも何でも可能です。
平日でも休日でも朝でも夜でも構いません。
初めて行くお宅で遠いところは出来れば明るいうちにお願いしたいです。
行くことが出来る地域は松本辺りなら大丈夫で、それ以上はご相談ください。
コロナ対策についてはその時の状況を判断して相談したうえで決めましょう。
出来るだけ一対一が良いですよね。
兄弟などが一緒にと言う場合はどうしましょう?
特別です。一対二でも2000円で良いです。
小さい人は途中で退席にしてもいいです。
目的は一つの刺激になること、親御さんの気持ちの寄り添うこと、
一回目をやった後の二回目をどうするのかは終わった後で相談しましょう。
メール、コメント、メッセージなどでご相談ください。
talking824-zattu879@yahoo.co.jp
学校が再開される見通しが立っていません。他人と関わる機会が少ないです。
そのため大人も子供も元気がなくなり、色んな体力が落ちています。
学力もそうですが勉強をする体力や気力が落ちています。親も同様です。
そんな人たちのお役に立ちたいと思っています。
私も3月から仕事を自粛しています。
生活のために2000円だけ頂きます。
交通費などは要りません。2000円だけです。
時間は60分です。本当は90分でも120分でも良いのですが、生徒の方に体力がないので無理なく取り組める時間です。
実際は様子を見た上で少し時間をオーバーするかもしれませんが料金は同じです。
対象は新高一以下です。それ以外の人はご相談ください。小学生は専門ではないのですが頑張ります。
3月まで中三生を20人を教えていたのでその辺りの年代が一番得意です。
科目は五教科なら全て可能です。内容は学校からの課題でも何でも可能です。
平日でも休日でも朝でも夜でも構いません。
初めて行くお宅で遠いところは出来れば明るいうちにお願いしたいです。
行くことが出来る地域は松本辺りなら大丈夫で、それ以上はご相談ください。
コロナ対策についてはその時の状況を判断して相談したうえで決めましょう。
出来るだけ一対一が良いですよね。
兄弟などが一緒にと言う場合はどうしましょう?
特別です。一対二でも2000円で良いです。
小さい人は途中で退席にしてもいいです。
目的は一つの刺激になること、親御さんの気持ちの寄り添うこと、
一回目をやった後の二回目をどうするのかは終わった後で相談しましょう。
メール、コメント、メッセージなどでご相談ください。
talking824-zattu879@yahoo.co.jp
2020年04月28日
私の少年時代8 単発バイト
単発バイトが好きだった。今も好きかもしれない。仕事がないので面白いのがあれば今もやりたいと思っている。
その名前の通り一回限りのバイトの事だ。イベントなどの募集が多い。
学生の頃そんな単発バイトの一つに行った。
京都の平安神宮の近くのホールでチャリティーコンサートの観客の補助のバイトだった。
障害がある人が来たときにその人を助けるということだったが、何をするのかはよくわからないのが単発バイトの常だった。
古いが大きくて雰囲気のあるホールだった。
沢山ある座席の中の一部が割り当てられた。
コンサートが始まる時間が近くなってきたがそれほど多くの観客は来ない。
私の助けを求める人は誰もいない。
間もなく始まるぞ、仕事がないじゃん。。。
そう思い始めたころだった。
車いすが一台こちらに向かってきた。
「こっちに来るのかな?」
急にドキドキした。
ドンドンこちらに向かっている。
見ると自分と同じ年齢くらいの女の子だった。
しかもかわいい。
ドキドキが大きくなった。
障害がある人の補助と聞いていたが、小中学校では障害がある人は知的障害がある人しか知らなかった。
女性を意識させるような障害のある人に会ったことはなかった。
その車椅子の女の子は私の想定外だった。とても素敵な印象の女性だった。
「こんにちは。」
そう言って微笑みかけてくるが私は完全に飲まれてしまっている。
「この奥の席にお願いできますか。」
車椅子が入れる幅の無い席しかないので座るための助けを求めてきた。
「はい、わかりました。」
でもどうやって??
スタッフのジャンパーを着ているのに実は初心者であることを知られるのが恥ずかしかった。
「どうしたらいいですか?」
思い切って彼女に聞いた。
彼女の方は補助されることになれているのが落ち着いた様子で明るく教えてくれた。
肩を組むような風にして右手で彼女の左肩に手をやり左手は足の下に手をまわして抱き上げるということだった。
言われるがままに左手を足の下に回した。
冷たかった。
義足だったのだろう。この時のショックは今でもはっきりと覚えている。
抱き上げるときに勢いがつきすぎて飛び上がりそうになった。
よろけてはいけないと気合を入れた私に対して彼女の体は軽すぎたのだった。
彼女は私の方に寄りかかった。
「すいません。」
彼女は慣れているのか笑いながら言ってくれた。
「いいですよ。すみません。」
彼女を席に連れて行って下した。
私は通路に戻り一連の動作の確認をして落ち込んでいた。
「きっと彼女を傷つけたに違いない。」
「あの動作は失礼ではなかったか?」
「あの一言はこうすればよかったのではないか?」
途中で退席する場合やトイレの補助などもバイトの仕事と言われていた。
「もしトイレに連れていく事になったらどうしよう。」
ずっとドキドキしていた。
どんなコンサートだったのかは覚えていない。
結局私の仕事はこれだけだった。
彼女が帰る時にも私は抱きかかえて車椅子に乗せたのだろう。
その場面の記憶は何もない。
入ってきた時の記憶ばかりが鮮明に残っている。
その名前の通り一回限りのバイトの事だ。イベントなどの募集が多い。
学生の頃そんな単発バイトの一つに行った。
京都の平安神宮の近くのホールでチャリティーコンサートの観客の補助のバイトだった。
障害がある人が来たときにその人を助けるということだったが、何をするのかはよくわからないのが単発バイトの常だった。
古いが大きくて雰囲気のあるホールだった。
沢山ある座席の中の一部が割り当てられた。
コンサートが始まる時間が近くなってきたがそれほど多くの観客は来ない。
私の助けを求める人は誰もいない。
間もなく始まるぞ、仕事がないじゃん。。。
そう思い始めたころだった。
車いすが一台こちらに向かってきた。
「こっちに来るのかな?」
急にドキドキした。
ドンドンこちらに向かっている。
見ると自分と同じ年齢くらいの女の子だった。
しかもかわいい。
ドキドキが大きくなった。
障害がある人の補助と聞いていたが、小中学校では障害がある人は知的障害がある人しか知らなかった。
女性を意識させるような障害のある人に会ったことはなかった。
その車椅子の女の子は私の想定外だった。とても素敵な印象の女性だった。
「こんにちは。」
そう言って微笑みかけてくるが私は完全に飲まれてしまっている。
「この奥の席にお願いできますか。」
車椅子が入れる幅の無い席しかないので座るための助けを求めてきた。
「はい、わかりました。」
でもどうやって??
スタッフのジャンパーを着ているのに実は初心者であることを知られるのが恥ずかしかった。
「どうしたらいいですか?」
思い切って彼女に聞いた。
彼女の方は補助されることになれているのが落ち着いた様子で明るく教えてくれた。
肩を組むような風にして右手で彼女の左肩に手をやり左手は足の下に手をまわして抱き上げるということだった。
言われるがままに左手を足の下に回した。
冷たかった。
義足だったのだろう。この時のショックは今でもはっきりと覚えている。
抱き上げるときに勢いがつきすぎて飛び上がりそうになった。
よろけてはいけないと気合を入れた私に対して彼女の体は軽すぎたのだった。
彼女は私の方に寄りかかった。
「すいません。」
彼女は慣れているのか笑いながら言ってくれた。
「いいですよ。すみません。」
彼女を席に連れて行って下した。
私は通路に戻り一連の動作の確認をして落ち込んでいた。
「きっと彼女を傷つけたに違いない。」
「あの動作は失礼ではなかったか?」
「あの一言はこうすればよかったのではないか?」
途中で退席する場合やトイレの補助などもバイトの仕事と言われていた。
「もしトイレに連れていく事になったらどうしよう。」
ずっとドキドキしていた。
どんなコンサートだったのかは覚えていない。
結局私の仕事はこれだけだった。
彼女が帰る時にも私は抱きかかえて車椅子に乗せたのだろう。
その場面の記憶は何もない。
入ってきた時の記憶ばかりが鮮明に残っている。
2020年04月27日
私の少年時代7 養護学級の女子生徒
中学生の頃クラスには養護学級に通う女子生徒がいた。
名前をかおる(仮名)と言った。
かおるは朝礼、給食、終礼はクラスに来たが授業中は養護学級にいた。
クラスで一番背が小さくて制服ではなくて体操服を着ていた。
声を出すが言葉は話せなかった。
こちらが言っていることは幾らかわかっているようだった。
いつもニコニコしていた。
歩くことはできたがまっすぐ歩くのは難しくて両手を半分あげてバランスを取りながら歩いていた。
すこし斜めになりながら歩いていた。
いつもお母さんが自転車の後ろにかおるを乗せて学校へ送って来た。
お母さんも小柄で私たちに頭を下げてばかりいた。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
そんな風に中学生の私たちにペコペコと頭を下げていた。
その頃の大阪の大人は中学生に頭を下げたりはしないのが普通だった。
かおるは生まれるときに大変でその影響で障害が残ってしまったと担任が話してくれた。
お母さんと二人で暮らしているそうだ。かおるが生まれてからお父さんは家を出て行ったらしい。
そんな事もあってか不良の奴らもかおるをいじめることは無かった。
特別扱いをするということもなかった。
私は給食を食べるのが遅くでクラスではほとんど最後になるのが常だった。
初めはいつものグループで食べているがしゃべってばかりでいくらも食べないうちに
他の奴らが食べ終わって運動場へ出て行ってしまう。
すると私は他のグループへ移動して食べるのだがそこでもしゃべってばかりでいた。
そうして気が付くとみんな外へ出てしまうことが多かった。
女子たちも同じようで最後に残ったのはかおると周りの大人しい女子数人だけだった。
「お前、どこまで食った?見せてみぃ!」
かおるは嬉しそうに声を上げて弁当箱を傾けてみせる。
小さな弁当箱だった。
「うわ、負けそうや、、、お前には負けへんぞ。」
そう言って近くで食べたものだった。
かおるはニコニコして何か声を上げながら大人しい女子に囲まれて食べていた。
いつもいい勝負だった。
運動会の前だった。
クラス対抗リレーにかおるを出すのか出さないのかを議題として学級会があった。
クラスの全員がバトンを回して10クラスで競うという大変なリレーで私たちにとってはかなり大切なものだった。
「かおるが出たら絶対に勝たれへん。」
多くの男子の意見だった。
「かおるもクラスの一員やから出るのが当然ちゃうんか?」
多くの女子の意見だった。
私は司会者でかけっこだけが取り柄の生徒だった。
「みんなが一秒ずつ速く走ったらかおるの分をカバーできるやろ。」
私の意見でかおるは走ることになった。
かおるは二人の女子に手を引かれて何とか受け持ちの100mを走った。
他のクラスの生徒が容赦なく抜かしていった。
アンカーの私がバトンを受けたときにはすでに前を走るランナーは3人しかいなかった。
全力で走ったが全く届かずにクラスは最下位だった。
悔しかった。
走っているときに保護者席からの応援の声がすごく大きかったのも何となく嫌だった。
クラスのみんなは黙ったままだった。
かおるがどーの、アンカーの吉田がどーの、そんなことを言うやつもいなかった。
中学を卒業するとみんなバラバラの高校に進学した。
かおるは隣の町にある養護学校に進んだらしい。
高校生の時に一度だけかおるを見かけた。
いつものようにお母さんの自転車の後ろに乗っていた。
いつものように中学の体操服を着ていた。
今かおるはどうしているだろう?
さすがにお母さんの自転車の後ろに乗っていることは無いだろう。
今も笑っていてくれると良いのだが、、、
名前をかおる(仮名)と言った。
かおるは朝礼、給食、終礼はクラスに来たが授業中は養護学級にいた。
クラスで一番背が小さくて制服ではなくて体操服を着ていた。
声を出すが言葉は話せなかった。
こちらが言っていることは幾らかわかっているようだった。
いつもニコニコしていた。
歩くことはできたがまっすぐ歩くのは難しくて両手を半分あげてバランスを取りながら歩いていた。
すこし斜めになりながら歩いていた。
いつもお母さんが自転車の後ろにかおるを乗せて学校へ送って来た。
お母さんも小柄で私たちに頭を下げてばかりいた。
「おはようございます。よろしくお願いします。」
そんな風に中学生の私たちにペコペコと頭を下げていた。
その頃の大阪の大人は中学生に頭を下げたりはしないのが普通だった。
かおるは生まれるときに大変でその影響で障害が残ってしまったと担任が話してくれた。
お母さんと二人で暮らしているそうだ。かおるが生まれてからお父さんは家を出て行ったらしい。
そんな事もあってか不良の奴らもかおるをいじめることは無かった。
特別扱いをするということもなかった。
私は給食を食べるのが遅くでクラスではほとんど最後になるのが常だった。
初めはいつものグループで食べているがしゃべってばかりでいくらも食べないうちに
他の奴らが食べ終わって運動場へ出て行ってしまう。
すると私は他のグループへ移動して食べるのだがそこでもしゃべってばかりでいた。
そうして気が付くとみんな外へ出てしまうことが多かった。
女子たちも同じようで最後に残ったのはかおると周りの大人しい女子数人だけだった。
「お前、どこまで食った?見せてみぃ!」
かおるは嬉しそうに声を上げて弁当箱を傾けてみせる。
小さな弁当箱だった。
「うわ、負けそうや、、、お前には負けへんぞ。」
そう言って近くで食べたものだった。
かおるはニコニコして何か声を上げながら大人しい女子に囲まれて食べていた。
いつもいい勝負だった。
運動会の前だった。
クラス対抗リレーにかおるを出すのか出さないのかを議題として学級会があった。
クラスの全員がバトンを回して10クラスで競うという大変なリレーで私たちにとってはかなり大切なものだった。
「かおるが出たら絶対に勝たれへん。」
多くの男子の意見だった。
「かおるもクラスの一員やから出るのが当然ちゃうんか?」
多くの女子の意見だった。
私は司会者でかけっこだけが取り柄の生徒だった。
「みんなが一秒ずつ速く走ったらかおるの分をカバーできるやろ。」
私の意見でかおるは走ることになった。
かおるは二人の女子に手を引かれて何とか受け持ちの100mを走った。
他のクラスの生徒が容赦なく抜かしていった。
アンカーの私がバトンを受けたときにはすでに前を走るランナーは3人しかいなかった。
全力で走ったが全く届かずにクラスは最下位だった。
悔しかった。
走っているときに保護者席からの応援の声がすごく大きかったのも何となく嫌だった。
クラスのみんなは黙ったままだった。
かおるがどーの、アンカーの吉田がどーの、そんなことを言うやつもいなかった。
中学を卒業するとみんなバラバラの高校に進学した。
かおるは隣の町にある養護学校に進んだらしい。
高校生の時に一度だけかおるを見かけた。
いつものようにお母さんの自転車の後ろに乗っていた。
いつものように中学の体操服を着ていた。
今かおるはどうしているだろう?
さすがにお母さんの自転車の後ろに乗っていることは無いだろう。
今も笑っていてくれると良いのだが、、、
2020年04月20日
グループ家庭教師吉田 再開?
1人1回60分で2000円で家庭教師に行きます。
毎週定期的に受験まで、、とかではなくて1回やって終わり。
次やるかどうかはその都度ご相談しましょう。
メールやラインで繋がっておけば何でもご相談に乗ります。
学年、科目、年代などは相談の上決めましょう。
小さい子供でも大丈夫かな??
それってベビーシッターですね?
そこも含めて何でも個別にご相談ください。
毎日毎日コロナ関連のニュースに心を痛めているのはみな同じですよね。
ここ数日は医療関係の方の苦悩が報道されていますね。。。
私は医療関係で出来ることと言えば自分が病院に行かないことと、将来医療関係で働く人を育てることくらいでしょうか?
少し前には良く報道されていた子供たちが家にいることの報道は少なくなっています。
私が出来るのはやはり子供たちを応援することですね。
毎日家でゴロゴロしているお子さんの姿が不安でたまらず家庭でのストレスになっている人が多いようですね。
とは言えどうしたら良いのかはわかりませんね。
もちろんお子さんもストレスが溜まっていますね。
僅かながらでもお役に立てるかなと思ってやってみます。
そんな思いからの再開です。ちっぽけな一歩ですがきっと誰かの役に立てますよね。。。
細かいことは決めていません。
感染しないように対策することも考えなくてはいけません。
まずはメールをしてくださいね。。。 talking824-zattu879@yahoo.co.jp
桜の花が散ってしまいそうです。
毎週定期的に受験まで、、とかではなくて1回やって終わり。
次やるかどうかはその都度ご相談しましょう。
メールやラインで繋がっておけば何でもご相談に乗ります。
学年、科目、年代などは相談の上決めましょう。
小さい子供でも大丈夫かな??
それってベビーシッターですね?
そこも含めて何でも個別にご相談ください。
毎日毎日コロナ関連のニュースに心を痛めているのはみな同じですよね。
ここ数日は医療関係の方の苦悩が報道されていますね。。。
私は医療関係で出来ることと言えば自分が病院に行かないことと、将来医療関係で働く人を育てることくらいでしょうか?
少し前には良く報道されていた子供たちが家にいることの報道は少なくなっています。
私が出来るのはやはり子供たちを応援することですね。
毎日家でゴロゴロしているお子さんの姿が不安でたまらず家庭でのストレスになっている人が多いようですね。
とは言えどうしたら良いのかはわかりませんね。
もちろんお子さんもストレスが溜まっていますね。
僅かながらでもお役に立てるかなと思ってやってみます。
そんな思いからの再開です。ちっぽけな一歩ですがきっと誰かの役に立てますよね。。。
細かいことは決めていません。
感染しないように対策することも考えなくてはいけません。
まずはメールをしてくださいね。。。 talking824-zattu879@yahoo.co.jp
桜の花が散ってしまいそうです。
2020年04月18日
私の少年時代6 不良
高校生の頃友人と自転車でうろうろと走っていた。
卒業した中学で知らないおじさんたちが野球をしていた。
特に興味もなかったがバックネットのところで自転車にまたがったまま野球を見ながらおしゃべりをしていた。
レフトの後ろ側に校舎があり悪そうな中学生がたむろしているのが見えた。
ギャーギャー叫びながら遊んでいた中学生だがしばらくすると
ガシャーンとガラスが割れる音が聞こえた。
何枚も割っているようだった。
野球をしていたおじさんたちが
「僕ら~ガラス割ったらあかんやろ!!」
「やめとき」
口々に叫びながら中学生の方に向かっていた。
「ほっといて。。。ええねん。俺らの学校やから、、、」
中学生はそう言いながら見えないところに行ってしまった。
私が中学生の時も月曜日にはガラスが無い窓が多かった。
ガラスが割られたことで問題になったり調べたりすることもなかった。
日常茶飯事だった。
そういう事をする子供は本当はSOSを出しているとか言う人がいるが当時の不良はそういう人は周りにはいなかった。
普通の生活の延長でガラスを割っていた。
今ではニュースになるほどの大問題なのだろう。
平和な世の中になったということだろう。
卒業した中学で知らないおじさんたちが野球をしていた。
特に興味もなかったがバックネットのところで自転車にまたがったまま野球を見ながらおしゃべりをしていた。
レフトの後ろ側に校舎があり悪そうな中学生がたむろしているのが見えた。
ギャーギャー叫びながら遊んでいた中学生だがしばらくすると
ガシャーンとガラスが割れる音が聞こえた。
何枚も割っているようだった。
野球をしていたおじさんたちが
「僕ら~ガラス割ったらあかんやろ!!」
「やめとき」
口々に叫びながら中学生の方に向かっていた。
「ほっといて。。。ええねん。俺らの学校やから、、、」
中学生はそう言いながら見えないところに行ってしまった。
私が中学生の時も月曜日にはガラスが無い窓が多かった。
ガラスが割られたことで問題になったり調べたりすることもなかった。
日常茶飯事だった。
そういう事をする子供は本当はSOSを出しているとか言う人がいるが当時の不良はそういう人は周りにはいなかった。
普通の生活の延長でガラスを割っていた。
今ではニュースになるほどの大問題なのだろう。
平和な世の中になったということだろう。
2020年04月17日
勉強の仕方4 今こそチャンス!
生徒児童の皆さん。学校がお休みで部活も無くて毎日退屈ですね。。。
私を含めた大人も一緒です。不安と退屈が同居している毎日です。
どうせなら何かやってみませんか?
時間がある今しかできない事ってないでしょうか?
私の仕事関係で言えば生徒の皆さんは今のうちに頭を磨いておいてください。
頭がさびている人と磨かれている人とは違うはず。。。
今のうちに磨いておきましょう。
好きな事を思いっきりするのが良いと思います。
勉強でなくてもいいです。思いっきりやりましょう。
アニメ、音楽、スポーツ観戦、何でもいいです。
ネットで沢山の情報を集めて交換して楽しみましょう。
特に好きなものがない人は無理やり見つけてみたらどうでしょう?
〇〇検定ってたくさんありますね。
英検や漢検でもいいし、長野検定や歴史検定ことわざ検定など数えきれないくらいあります。
面白そうなものを見つけて親子で楽しむのも良いと思います。
ネットで問題が閲覧できるものもありますし、多くは問題集を取り寄せることが出来ます。
外に出て花の写真を撮って種類を調べてファイリングするのも楽しいです。以前私も結構やりました。
地域の歴史を調べるのも楽しいです。外出自粛の範囲で出来るものもあります。
どうしても見つからない人は前の学年の数学の一つの分野を得意に変えて下さい。
例えば中三なら二年生の連立方程式の文章題に取り組みます。
問題集に20問ほどあれば解説解答を見て繰り返して全て出来る様にします。
全部出来たらご褒美を上げて良いと思います。
因みにですがネットには無数に問題が載っています。
解説を見ても理解できない人はメールで私に問い合わせて下さい。
初めての人でも誰でも無料で構いません。
何でも良いです。ゲームでも良いと思います。数独やクロスワードパズルも良いと思います。
思いっきりやると良いと思います。。。
せっかくなのでタダでは立ち上がらないように何かを身につけるチャンスです。
私を含めた大人も一緒です。不安と退屈が同居している毎日です。
どうせなら何かやってみませんか?
時間がある今しかできない事ってないでしょうか?
私の仕事関係で言えば生徒の皆さんは今のうちに頭を磨いておいてください。
頭がさびている人と磨かれている人とは違うはず。。。
今のうちに磨いておきましょう。
好きな事を思いっきりするのが良いと思います。
勉強でなくてもいいです。思いっきりやりましょう。
アニメ、音楽、スポーツ観戦、何でもいいです。
ネットで沢山の情報を集めて交換して楽しみましょう。
特に好きなものがない人は無理やり見つけてみたらどうでしょう?
〇〇検定ってたくさんありますね。
英検や漢検でもいいし、長野検定や歴史検定ことわざ検定など数えきれないくらいあります。
面白そうなものを見つけて親子で楽しむのも良いと思います。
ネットで問題が閲覧できるものもありますし、多くは問題集を取り寄せることが出来ます。
外に出て花の写真を撮って種類を調べてファイリングするのも楽しいです。以前私も結構やりました。
地域の歴史を調べるのも楽しいです。外出自粛の範囲で出来るものもあります。
どうしても見つからない人は前の学年の数学の一つの分野を得意に変えて下さい。
例えば中三なら二年生の連立方程式の文章題に取り組みます。
問題集に20問ほどあれば解説解答を見て繰り返して全て出来る様にします。
全部出来たらご褒美を上げて良いと思います。
因みにですがネットには無数に問題が載っています。
解説を見ても理解できない人はメールで私に問い合わせて下さい。
初めての人でも誰でも無料で構いません。
何でも良いです。ゲームでも良いと思います。数独やクロスワードパズルも良いと思います。
思いっきりやると良いと思います。。。
せっかくなのでタダでは立ち上がらないように何かを身につけるチャンスです。
2020年04月16日
3年生がとても心配です。
松商学園サッカー部の皆さんがアップした動画を見ていました。
家の中で筋トレをする人、お手玉のようなものでキャッチボールのようにしている人、
家の前でリフティングをしている人、みんな上手いな~
先生が学校の体育館で写った動画もありました。
各自でアップしたものを部活でまとめてアップしたものです。
2月の終わりに息子たちの引退試合でお世話になった後輩の皆さんです。
「みんな、それぞれの形で頑張っているな。」
「早く集まって練習をして試合が出来たら良いな~」
「いつ頃になればできるかな?」
「いつ?ん?いつ?」
「やばくない?」
「ん~~~~~」
血の気が引いて行くのがわかった。
3月には県のリーグ戦が始まっている。
もちろん試合はない。
それが終わるとインターハイの予選だ。
その予選で負けると引退する学校が多い。
松商のサッカー部の多くの3年生は秋のリーグ戦、正月の選手権を目指す。
でも多くの学校の部活は夏前に引退する。
中学生だってそうだ。
中体連は6月で終わる人がほとんどだ。
息子たちの中体連の最後の試合のことを思い出した。
あれが無くなるって、そりゃ駄目だ。
あの感動が無くなってしまうの?
かわいそうすぎる。
学校生活の一番の感動は部活だよね。。。
仲間で笑ったり泣いたり、、
その集大成の時期が間もなくやってくる。
勝っても負けても、試合に出られなくても、、、
親も一緒になって泣くことさえ出来ないなんて、、、
そりゃ、あかん。。
あと一か月で終息して、そこから練習をしてなんとかギリギリか、、、
う~ん。心配するしかできない。
家の中で筋トレをする人、お手玉のようなものでキャッチボールのようにしている人、
家の前でリフティングをしている人、みんな上手いな~
先生が学校の体育館で写った動画もありました。
各自でアップしたものを部活でまとめてアップしたものです。
2月の終わりに息子たちの引退試合でお世話になった後輩の皆さんです。
「みんな、それぞれの形で頑張っているな。」
「早く集まって練習をして試合が出来たら良いな~」
「いつ頃になればできるかな?」
「いつ?ん?いつ?」
「やばくない?」
「ん~~~~~」
血の気が引いて行くのがわかった。
3月には県のリーグ戦が始まっている。
もちろん試合はない。
それが終わるとインターハイの予選だ。
その予選で負けると引退する学校が多い。
松商のサッカー部の多くの3年生は秋のリーグ戦、正月の選手権を目指す。
でも多くの学校の部活は夏前に引退する。
中学生だってそうだ。
中体連は6月で終わる人がほとんどだ。
息子たちの中体連の最後の試合のことを思い出した。
あれが無くなるって、そりゃ駄目だ。
あの感動が無くなってしまうの?
かわいそうすぎる。
学校生活の一番の感動は部活だよね。。。
仲間で笑ったり泣いたり、、
その集大成の時期が間もなくやってくる。
勝っても負けても、試合に出られなくても、、、
親も一緒になって泣くことさえ出来ないなんて、、、
そりゃ、あかん。。
あと一か月で終息して、そこから練習をしてなんとかギリギリか、、、
う~ん。心配するしかできない。
2020年04月15日
勉強の仕方3 問題集
学校の問題集を最大限活用しましょう。
同じ問題集を何度も繰り返して出来ない問題がないくらいまでやってください。
日付と点数を書き込むようになっているものが多いです。
偉い先生が他の多くが推奨しているやり方と言うことです。
書き込むことでモチベーションアップにもなるしやるべき場所が明確になります。
新たに生徒になった人が良く言います。
「あまりやっていません。他のをやっています。」
たいていの場合はやっていない言い訳です。
逃げ道を作らないためにも同じ問題集を繰り返すことが大事です。
親御さんは心配のあまりあれこれと買ってきます。
あまり効果的ではないです。
「もう一通りやりました。」
「じゃ、このページやってみて、、」
「あ、そこは、、、まだちょっと、、」
多くの場合はやったと言ってもきちんとはやっていません。
「この問題集からはあまり学校のテストには出ません。」
学校の先生が配った問題集と本屋さんで買った問題集とで大きな差はありません。
全く同じ問題が出る可能性が高いのはどちらかを考えてみましょう。
そもそも大きな差がないのなら学校の問題集で良いでしょう?
あれこれと変えてしまうのが一番の逃げ道を作ることになります。
時間がたっぷりある人は一つ下の学年のものでも良いので完璧に仕上げてみたら滅茶苦茶実力が付きます。
同じ問題集を何度も繰り返して出来ない問題がないくらいまでやってください。
日付と点数を書き込むようになっているものが多いです。
偉い先生が他の多くが推奨しているやり方と言うことです。
書き込むことでモチベーションアップにもなるしやるべき場所が明確になります。
新たに生徒になった人が良く言います。
「あまりやっていません。他のをやっています。」
たいていの場合はやっていない言い訳です。
逃げ道を作らないためにも同じ問題集を繰り返すことが大事です。
親御さんは心配のあまりあれこれと買ってきます。
あまり効果的ではないです。
「もう一通りやりました。」
「じゃ、このページやってみて、、」
「あ、そこは、、、まだちょっと、、」
多くの場合はやったと言ってもきちんとはやっていません。
「この問題集からはあまり学校のテストには出ません。」
学校の先生が配った問題集と本屋さんで買った問題集とで大きな差はありません。
全く同じ問題が出る可能性が高いのはどちらかを考えてみましょう。
そもそも大きな差がないのなら学校の問題集で良いでしょう?
あれこれと変えてしまうのが一番の逃げ道を作ることになります。
時間がたっぷりある人は一つ下の学年のものでも良いので完璧に仕上げてみたら滅茶苦茶実力が付きます。
2020年04月14日
私の少年時代5 新聞配達
中学二年生のある日、突然思い立って新聞配達を始め、1年半ほど続けた。
沢山の事を経験した。今となっては良い思い出だ。
私たちの間ではステレオが憧れだった。ラジカセから大きなステレオに変える友達がいた。
良いものを買いたいと思ったがお年玉をためた貯金では足らないのでふと思いついたのが新聞配達のバイトだった。
夕刊ではなくて朝刊にしようと思ったのはもちろん金が良いと思ったからだ。
親を説得して担任と話をした。担任は母と同世代で近所に住む人だった。
テストの点数を下げないことが条件だった。もともと勉強はしていないので新聞を配ったからと言って下がる理由はなかった。
「近くだと、朝日新聞と読売新聞があるな。朝日は中学生は使わないって聞いたよ。」
先生のこの誤った情報をもとに読売新聞に行った。
あとから知ったことだが朝日はチラシを自分で入れなくて良くてさらに給料は読売の倍くらいもらえて、おまけに甲子園に高校野球を見に連れて行ってくれるらしい。チラシや給料は新聞社の問題ではなくて販売店独自で決めるので私が行ったところが悪かったようだ。
朝日は学校の許可があれば中学生でも使ってくれたらしい。
夜中の2時半から4時くらいの間に目覚ましを鳴らして起きた。6時くらいまでの配り終わればよかった。
いつも炒り卵を作ってご飯にかけて食べてから家を出た。シーチキンを食べることも多かった。
食べて行かないと結構お腹が空いた。見慣れた街だが夜中は違う世界だった。コンビニさえない時代、闇しかなかった。
火で道路をあぶって工事をしていた。時々爆音を鳴らしたバイクが走っていた。結構の数の野良犬がいた。
大阪とはいえ郊外にある当時の地元はお化けが出そうだった。おじいちゃんの家がある農家が並ぶ地域だった。
農家の家を覚えることは容易だったが新聞を入れる場所を覚えるのが大変だった。ポストがいくつもあったり、新聞はポストに入れずに玄関の隙間から差し込んだり、家々で違っていた。
月が替わると新規だったり終了だったりする家が多くてよく間違えてしまった。
お寺があってこれが怖かった。吉田家が檀家になっていて、私が通っていた保育園を営む馴染みのお寺だったが夜中は怖かった。
竹がこすれて嫌な音を立てる日が特に嫌だった。お墓を見ないようにして新聞を配った。時々線香の臭いがした。
学生寮があった。靴を脱いで建物に入り部屋の前に新聞を置いた。マージャンをしている大学生が多かった。夜中に大声で騒いでいた。
新聞を取り入れずに散らかっている部屋もあった。ビール瓶と靴が散乱して嫌なにおいがした。壁には落書きがあったりHなポスターが貼られていた。大学生ってこんなものかと思った。
女子寮、女子アパートもあった。他人が入ることが出来ない敷地内に踏み入れるだけで中学生をドキドキさせるには十分だった。敷地内に寮専用のお風呂の建物があった。時々夜中にお風呂に入っている様子がわかった。お湯をかける音がして窓からは湯気が出ていた。妄想で頭の中が一杯だった。マクドナルドの制服が玄関先に干してある部屋があった。枚方駅前の店だなと色々と想像した。
円形の小さな物干しがあって周りをハンカチで覆っていた。隙間からわずかに中が見える。
夏などは部屋のドアが開いている部屋もあった。ここは一般の人が入ってこない場所だ。
犯罪に走らずに良かった本当に走っていませんから。
雨の日は大変だった。どうしても新聞が濡れてしまう。予めビニール袋に入れていくがかさばって仕方がない。
ぼろいアスファルトが多くて穴があいていたり、道路が傾いていたりもした。何度か自転車を倒して新聞が汚れてしまい取りに戻ったこともあった。大人用の鉄の重たい自転車に80から多い時には100ほどの新聞を積むので力が要った。私はわりと体がしっかりしていたので大人同様に対応できたが、6年生の配達員もいて彼は椅子に乗らずにずっと立ちこぎで走っていた。
配達員の間での交流は全くなかった。みんな無言だった。
寝坊をしてしまって電話を鳴らされて飛び起きて何も食べずに出ていく事も何度かあった。
学校ではかなり眠たかった。良く寝ていたようにさえ思う。
「ちょっとの間だけ夕刊も配ってくれへんか?」
そう言われて何日か配った。いくらでとかいつまでとかの条件は無かった。
何日か配っても何も言われなかった。毎日眠かった。夕刊は辞めたい旨を告げると、
「そうか」
そう言ってポケットから1000円札を二枚出して渡された。何事もこうしたどんぶり勘定だった。
楽しみにしていた給料は月に15000円程度だった。一日500円程度だ。
夜中に起きて2時間も配ってこれである。がっかりした。高校生の年賀状配達のバイトの時給が500円を少し切る位の時代だった。
新聞配達はもっと良い条件だと思っていた。実際に他の販売店なら良かったのかもしれない。
この店でも初めに条件を確認すればもう少し良くなったのかもしれない。
最初に条件を確認しない私が悪かったのだ。子供だった私にはそういう知恵はなかった。
あとから知ったのだがかなり評判が悪い販売店のオヤジだった。
朝日の販売店の人は評判が良かった。
リサーチの重要さも思い知った。
それでも途中で朝日に移るという事は考えなかった。移ればよかった。
冬は寒かった。軍手をはめてもう一組の軍手をジーンズの尻のポケットに入れた。
それらを履き替えると一瞬だけ暖かかった。
ジーンズとジャンパーという普通の防寒しか無かった。使い捨てカイロは無かった。
甲斐バンドのヒーロー、杏里のオリビアを聴きながら、を唱って気を紛らわせた。
この時の経験が長野への移住に繋がっていたかもしれない。
赤ちゃんを二人抱えての移住だったが、不安はなかった。
「どうしても生活が出来なくなれば新聞配達も出来るわ」
そんな気持ちが移住を決断する後押しになったかもしれない。
沢山の事を経験した。今となっては良い思い出だ。
私たちの間ではステレオが憧れだった。ラジカセから大きなステレオに変える友達がいた。
良いものを買いたいと思ったがお年玉をためた貯金では足らないのでふと思いついたのが新聞配達のバイトだった。
夕刊ではなくて朝刊にしようと思ったのはもちろん金が良いと思ったからだ。
親を説得して担任と話をした。担任は母と同世代で近所に住む人だった。
テストの点数を下げないことが条件だった。もともと勉強はしていないので新聞を配ったからと言って下がる理由はなかった。
「近くだと、朝日新聞と読売新聞があるな。朝日は中学生は使わないって聞いたよ。」
先生のこの誤った情報をもとに読売新聞に行った。
あとから知ったことだが朝日はチラシを自分で入れなくて良くてさらに給料は読売の倍くらいもらえて、おまけに甲子園に高校野球を見に連れて行ってくれるらしい。チラシや給料は新聞社の問題ではなくて販売店独自で決めるので私が行ったところが悪かったようだ。
朝日は学校の許可があれば中学生でも使ってくれたらしい。
夜中の2時半から4時くらいの間に目覚ましを鳴らして起きた。6時くらいまでの配り終わればよかった。
いつも炒り卵を作ってご飯にかけて食べてから家を出た。シーチキンを食べることも多かった。
食べて行かないと結構お腹が空いた。見慣れた街だが夜中は違う世界だった。コンビニさえない時代、闇しかなかった。
火で道路をあぶって工事をしていた。時々爆音を鳴らしたバイクが走っていた。結構の数の野良犬がいた。
大阪とはいえ郊外にある当時の地元はお化けが出そうだった。おじいちゃんの家がある農家が並ぶ地域だった。
農家の家を覚えることは容易だったが新聞を入れる場所を覚えるのが大変だった。ポストがいくつもあったり、新聞はポストに入れずに玄関の隙間から差し込んだり、家々で違っていた。
月が替わると新規だったり終了だったりする家が多くてよく間違えてしまった。
お寺があってこれが怖かった。吉田家が檀家になっていて、私が通っていた保育園を営む馴染みのお寺だったが夜中は怖かった。
竹がこすれて嫌な音を立てる日が特に嫌だった。お墓を見ないようにして新聞を配った。時々線香の臭いがした。
学生寮があった。靴を脱いで建物に入り部屋の前に新聞を置いた。マージャンをしている大学生が多かった。夜中に大声で騒いでいた。
新聞を取り入れずに散らかっている部屋もあった。ビール瓶と靴が散乱して嫌なにおいがした。壁には落書きがあったりHなポスターが貼られていた。大学生ってこんなものかと思った。
女子寮、女子アパートもあった。他人が入ることが出来ない敷地内に踏み入れるだけで中学生をドキドキさせるには十分だった。敷地内に寮専用のお風呂の建物があった。時々夜中にお風呂に入っている様子がわかった。お湯をかける音がして窓からは湯気が出ていた。妄想で頭の中が一杯だった。マクドナルドの制服が玄関先に干してある部屋があった。枚方駅前の店だなと色々と想像した。
円形の小さな物干しがあって周りをハンカチで覆っていた。隙間からわずかに中が見える。
夏などは部屋のドアが開いている部屋もあった。ここは一般の人が入ってこない場所だ。
犯罪に走らずに良かった本当に走っていませんから。
雨の日は大変だった。どうしても新聞が濡れてしまう。予めビニール袋に入れていくがかさばって仕方がない。
ぼろいアスファルトが多くて穴があいていたり、道路が傾いていたりもした。何度か自転車を倒して新聞が汚れてしまい取りに戻ったこともあった。大人用の鉄の重たい自転車に80から多い時には100ほどの新聞を積むので力が要った。私はわりと体がしっかりしていたので大人同様に対応できたが、6年生の配達員もいて彼は椅子に乗らずにずっと立ちこぎで走っていた。
配達員の間での交流は全くなかった。みんな無言だった。
寝坊をしてしまって電話を鳴らされて飛び起きて何も食べずに出ていく事も何度かあった。
学校ではかなり眠たかった。良く寝ていたようにさえ思う。
「ちょっとの間だけ夕刊も配ってくれへんか?」
そう言われて何日か配った。いくらでとかいつまでとかの条件は無かった。
何日か配っても何も言われなかった。毎日眠かった。夕刊は辞めたい旨を告げると、
「そうか」
そう言ってポケットから1000円札を二枚出して渡された。何事もこうしたどんぶり勘定だった。
楽しみにしていた給料は月に15000円程度だった。一日500円程度だ。
夜中に起きて2時間も配ってこれである。がっかりした。高校生の年賀状配達のバイトの時給が500円を少し切る位の時代だった。
新聞配達はもっと良い条件だと思っていた。実際に他の販売店なら良かったのかもしれない。
この店でも初めに条件を確認すればもう少し良くなったのかもしれない。
最初に条件を確認しない私が悪かったのだ。子供だった私にはそういう知恵はなかった。
あとから知ったのだがかなり評判が悪い販売店のオヤジだった。
朝日の販売店の人は評判が良かった。
リサーチの重要さも思い知った。
それでも途中で朝日に移るという事は考えなかった。移ればよかった。
冬は寒かった。軍手をはめてもう一組の軍手をジーンズの尻のポケットに入れた。
それらを履き替えると一瞬だけ暖かかった。
ジーンズとジャンパーという普通の防寒しか無かった。使い捨てカイロは無かった。
甲斐バンドのヒーロー、杏里のオリビアを聴きながら、を唱って気を紛らわせた。
この時の経験が長野への移住に繋がっていたかもしれない。
赤ちゃんを二人抱えての移住だったが、不安はなかった。
「どうしても生活が出来なくなれば新聞配達も出来るわ」
そんな気持ちが移住を決断する後押しになったかもしれない。
2020年04月13日
勉強の仕方2丸付け
私が関わる生徒のほとんどは中学3年生だが一緒に勉強を始めた時点できちんとした丸付けをしていた生徒はいない。
問題を解いたらすぐに丸付けをする、これが基本です。
当たり前と言えば当たり前ですよね。。。
でも親や先生が答を取り上げていたりする場合もあります。
答を丸写しするからだそうです。
私の息子もありました。
5年生の時に自習用にと私が買ったドリルをやらせていたのですが、
あとでドリルの出来具合を見て気が付きました。
「このページが50点でこっちのページが100点か、、、ありえない。」
次の日に100点だったページをもう一度やらせてみました。
結果は言うまでもありません。
大人になった今はそれが笑いのネタです。
脱線しましたが小学生ならそれもあるかもしれません。
子どもを信じて答えを預ける。
答丸写しの疑問を感じたら同じ問題をもう一度やらせればよいです。
その事よりもなぜ問題を解くのかということです。
出来る問題と出来ない問題を仕分けして出来ない問題を出来る問題に変えていくことが必要です。
そのためには問題を解いたら即答え合わせです。
そしてやった日付と点数を問題集に記入します。
出来が悪いページは答や解説を見てしっかり理解した上で良い点数になるまで繰り返します。
また脱線します。
大学入試を目指していた高三の女子生徒がいました。
良く出来る子です。
今頃東京で看護師をしているでしょう。頑張ってください。
あ、戻ります。
彼女は数学の問題を解くと時々自分でハナマルをつけていました。
「それって意味ある?」
そう言う私に彼女は言いました。
「自分にご褒美ですよ。こうやって盛り上げているんです。」
そう丸付けをして盛り上げていく事も大事です。
丸付けをしやすいボールペンなどを使ってくださいね。
今日は天気が悪いので一層外出を控えることになりそうです。。。
問題を解いたらすぐに丸付けをする、これが基本です。
当たり前と言えば当たり前ですよね。。。
でも親や先生が答を取り上げていたりする場合もあります。
答を丸写しするからだそうです。
私の息子もありました。
5年生の時に自習用にと私が買ったドリルをやらせていたのですが、
あとでドリルの出来具合を見て気が付きました。
「このページが50点でこっちのページが100点か、、、ありえない。」
次の日に100点だったページをもう一度やらせてみました。
結果は言うまでもありません。
大人になった今はそれが笑いのネタです。
脱線しましたが小学生ならそれもあるかもしれません。
子どもを信じて答えを預ける。
答丸写しの疑問を感じたら同じ問題をもう一度やらせればよいです。
その事よりもなぜ問題を解くのかということです。
出来る問題と出来ない問題を仕分けして出来ない問題を出来る問題に変えていくことが必要です。
そのためには問題を解いたら即答え合わせです。
そしてやった日付と点数を問題集に記入します。
出来が悪いページは答や解説を見てしっかり理解した上で良い点数になるまで繰り返します。
また脱線します。
大学入試を目指していた高三の女子生徒がいました。
良く出来る子です。
今頃東京で看護師をしているでしょう。頑張ってください。
あ、戻ります。
彼女は数学の問題を解くと時々自分でハナマルをつけていました。
「それって意味ある?」
そう言う私に彼女は言いました。
「自分にご褒美ですよ。こうやって盛り上げているんです。」
そう丸付けをして盛り上げていく事も大事です。
丸付けをしやすいボールペンなどを使ってくださいね。
今日は天気が悪いので一層外出を控えることになりそうです。。。
2020年04月10日
勉強の仕方1
家庭教師を依頼してくる人の中でかなりの割合で
「勉強の仕方がわかっていない」
と言う。
生徒が言うケースはほとんどなくて親がそう言う。
そのためこの業界の宣伝文句には
「勉強の仕方を教えます。」
というものがある。
これから数回にわたってその勉強の仕方を自分なりに考えてみたい。
まず最初に思うことは勉強の仕方に特別なことは無いということだ。
大人からすれば当たり前の事ばかりで目から鱗が落ちるような新しいものはないだろうということだ。
学校の先生もいつも言っている。
親もいつも言っている。
そんなことばかりだ。
肝心なことはそれをやるかやらないかであって結局は当事者である生徒の側の意識の問題が大きい。
点数が良い生徒はその意識が高いので点数が高い。
低い生徒は何も考えずにやる生徒が多いので点数が低い。
そこえ私の出番だ。
その意識の部分を高めていく事になる。
もちろん具体的な部分も指摘する。
具体的な解き方も教える。
しかし気持ちの部分に寄り添い意識を高めることが一番大切だ。
去年いてくれた20人余りの中三生は全員これが達成できた。
一生の財産を身につけた彼らは立派な高校生となるだろう。
少しずつ具体的な内容も書いていきます。
でも結局はテクニックではなく心です。
みんな遊びや友人の方が大切な中で勉強との折り合いをどうつけるのかが大切なんです。
「勉強の仕方がわかっていない」
と言う。
生徒が言うケースはほとんどなくて親がそう言う。
そのためこの業界の宣伝文句には
「勉強の仕方を教えます。」
というものがある。
これから数回にわたってその勉強の仕方を自分なりに考えてみたい。
まず最初に思うことは勉強の仕方に特別なことは無いということだ。
大人からすれば当たり前の事ばかりで目から鱗が落ちるような新しいものはないだろうということだ。
学校の先生もいつも言っている。
親もいつも言っている。
そんなことばかりだ。
肝心なことはそれをやるかやらないかであって結局は当事者である生徒の側の意識の問題が大きい。
点数が良い生徒はその意識が高いので点数が高い。
低い生徒は何も考えずにやる生徒が多いので点数が低い。
そこえ私の出番だ。
その意識の部分を高めていく事になる。
もちろん具体的な部分も指摘する。
具体的な解き方も教える。
しかし気持ちの部分に寄り添い意識を高めることが一番大切だ。
去年いてくれた20人余りの中三生は全員これが達成できた。
一生の財産を身につけた彼らは立派な高校生となるだろう。
少しずつ具体的な内容も書いていきます。
でも結局はテクニックではなく心です。
みんな遊びや友人の方が大切な中で勉強との折り合いをどうつけるのかが大切なんです。
2020年04月08日
新型コロナウイルスと対立の構図
新型コロナウイルスの蔓延が始まった当初は国際間の対立があった。
感染者が出た国との往来を止めたことで関係がこじれている旨の報道が多かった。
その国の人が差別を受けているとの報道もあった。
その後は世代間の対立があった。
高齢者と若者との対立だった。
孫とおじいちゃんとならいたわりあえるのに他人同士であれば対立してしまう。
今はどうだろう?
都市部と地方との対立が起こっているように思う。
地方における感染者の多くは都市部に行ったことで感染しているそうだ。
都市部の人が地方に来ることに対しての警戒感が強い。
地方の人の多くは都市部に身内がいる。
私もそうだ。
親や兄弟、三人の息子たちはいずれも緊急事態宣言が出ている地域にいる。
何かあっても駆けつけにくいし、こちらに避難してもらうことも出来ない。
私事だが、間もなく長男は父親になるが子供の顔を見に行く予定は立っていない。
都市に住む学生等の若者が地方の実家に帰ることへの警戒感もあるようだ。
息子の同級生などは今年から都会の大学へ行く人が多い。
人によっては早々と授業開始が遅れる旨を受けてこちらに残ったままである。
人によっては入学式があり、都市へ引っ越した後今の事態になっている。
親だったら迎えに行くことも当然の動きだろう。
こちらに戻ると家には祖父母がいる。
近所の人の目も怖い。
でも我が子が心配でたまらない。
やはり戻ってこさせるというのが普通の気持ちだろう。
家族間や近所との対立も生まれているかもしれない。
私の生徒でも都市部の学校に通う人や今年から入った人が何人もいる。
「最近はどうよ?」
なかなかそう連絡することも出来ない。
この地方都市でも対立はある。
毎朝の様にドラッグストアに並ぶ人たち。
店の人はストレスが溜まり、並んでいる人もストレスが溜まる。
仕事へ行く途中にその列を見ているだけでもストレスに感じる人もいるだろう。
マスクをつけるかつけないか、仕事を休むか休まないか、公園に行くか行かないか、外食をするかしないか、
あちこちで対立がある。
少なくとも心の中での対立はあるだろう。
学校はあるのかな?ないのかな?
保育園はどうだろう?
保護者にもいろんな立場や意見があり、対立があるだろう。
アウトドアのsnsを見ているとかなり対立している。
「山に登るのは三密ではないから良いよね?」
「何言ってんの?都会から地方に来ないで!」
「は?車で都会を出てほとんど人がいない山に登るのにどうして?」
「トイレやスーパーには行くでしょ?」
「地方に住んでいるあなたたちは近くの山に登るのに、偉そうに言わないで。」
元々はアウトドアが好きな仲間同士での情報交換の場なのに対立が起きている。
「そんな書き込みをしないで大人しくしていて、」
「私の書き込みが嫌だと書き込むのをやめて」
テレビをつけるとほぼ新型コロナ関連だし、他の事をやっていれば
「このご時世に不謹慎な。。」
と思っているバカな自分がいる。
それこそ不謹慎だとお叱りを受けそうだが、時々考えることがある。
「戦争の時のストレスはどんなに大変だったのだろう?」
ニコニコと笑っているおじいちゃんおばあちゃんたちはもの凄い対立の時代に大きな我慢をして生きて来たんだろうな。
感染者が出た国との往来を止めたことで関係がこじれている旨の報道が多かった。
その国の人が差別を受けているとの報道もあった。
その後は世代間の対立があった。
高齢者と若者との対立だった。
孫とおじいちゃんとならいたわりあえるのに他人同士であれば対立してしまう。
今はどうだろう?
都市部と地方との対立が起こっているように思う。
地方における感染者の多くは都市部に行ったことで感染しているそうだ。
都市部の人が地方に来ることに対しての警戒感が強い。
地方の人の多くは都市部に身内がいる。
私もそうだ。
親や兄弟、三人の息子たちはいずれも緊急事態宣言が出ている地域にいる。
何かあっても駆けつけにくいし、こちらに避難してもらうことも出来ない。
私事だが、間もなく長男は父親になるが子供の顔を見に行く予定は立っていない。
都市に住む学生等の若者が地方の実家に帰ることへの警戒感もあるようだ。
息子の同級生などは今年から都会の大学へ行く人が多い。
人によっては早々と授業開始が遅れる旨を受けてこちらに残ったままである。
人によっては入学式があり、都市へ引っ越した後今の事態になっている。
親だったら迎えに行くことも当然の動きだろう。
こちらに戻ると家には祖父母がいる。
近所の人の目も怖い。
でも我が子が心配でたまらない。
やはり戻ってこさせるというのが普通の気持ちだろう。
家族間や近所との対立も生まれているかもしれない。
私の生徒でも都市部の学校に通う人や今年から入った人が何人もいる。
「最近はどうよ?」
なかなかそう連絡することも出来ない。
この地方都市でも対立はある。
毎朝の様にドラッグストアに並ぶ人たち。
店の人はストレスが溜まり、並んでいる人もストレスが溜まる。
仕事へ行く途中にその列を見ているだけでもストレスに感じる人もいるだろう。
マスクをつけるかつけないか、仕事を休むか休まないか、公園に行くか行かないか、外食をするかしないか、
あちこちで対立がある。
少なくとも心の中での対立はあるだろう。
学校はあるのかな?ないのかな?
保育園はどうだろう?
保護者にもいろんな立場や意見があり、対立があるだろう。
アウトドアのsnsを見ているとかなり対立している。
「山に登るのは三密ではないから良いよね?」
「何言ってんの?都会から地方に来ないで!」
「は?車で都会を出てほとんど人がいない山に登るのにどうして?」
「トイレやスーパーには行くでしょ?」
「地方に住んでいるあなたたちは近くの山に登るのに、偉そうに言わないで。」
元々はアウトドアが好きな仲間同士での情報交換の場なのに対立が起きている。
「そんな書き込みをしないで大人しくしていて、」
「私の書き込みが嫌だと書き込むのをやめて」
テレビをつけるとほぼ新型コロナ関連だし、他の事をやっていれば
「このご時世に不謹慎な。。」
と思っているバカな自分がいる。
それこそ不謹慎だとお叱りを受けそうだが、時々考えることがある。
「戦争の時のストレスはどんなに大変だったのだろう?」
ニコニコと笑っているおじいちゃんおばあちゃんたちはもの凄い対立の時代に大きな我慢をして生きて来たんだろうな。
2020年04月06日
私の少年時代4 いじめられっ子からいじめっ子へ
3年生まではいじめられっ子で4年生からはいじめっ子になってしまった私です。
保育園に入る前の頃には家の周りには1つ2つ年上の子が数人いた。
その年代で年齢が1つ2つ変わると大きな差がある。
当時は力が支配するのが子供の社会だった。
私は勝てなかった。
何をしても駄目だった。
追いかけ回されて家に逃げ込み、家に向かって石を投げられて窓ガラスに当たり、母親が外へ出て近所の子を叱っていたことを覚えている。
力で勝てなかった私は自分に自信がなかった。
でも良いことがあった。
いじめられっ子だったお陰で頭が良くなった。
どうしたらいじめられずに関わることが出来るのか?
こういう行動発言がいじめられるんだ、ということを学んだので
いじめっ子は怖くはなかった。
保育園に入り、小学校に入って周りのメンバーは同じ関わる年齢になったが自分の中でのいじめられっ子気質は変わらなかった。
あまり目立たないように、大人しく、強い人には逆らわない、そんな風に心がけていた。
荒れていた大阪の子供の社会はなかなか厳しかった。
調子に乗るとすぐにやられた。
いじめられないようにするのを考えることは大切だった。
調子に乗りたい性格だがいじめられたくはないので必死で考えた。
考えてもそれほどうまく行かなかったが勉強で苦労しなくて済んだのはこうして考える癖がついたからだろう。
3年生のある日、いつものいじめっ子に絡まれていた。
取っ組み合いのような形だったが私はほとんどやられているだけだった。
痛くて怖くてそいつを払いのけた。
そいつは吹っ飛んで行った。
怖い顔をしてかかってきた。
恐怖のあまり私は闇雲に歯向かった。
簡単に勝てた。
もしかしたら俺は強いのかも?
そう思った私はその日からそいつをやっつけ始めたがいつも簡単に勝てた。
4年生になり3年生と同じ顔ぶれのクラスだったので私の逆襲が始まった。
これまで私をいじめていた奴らを片っ端からいじめ始めた。
いじめたというよりも暴れていた。
独りでクラスの全員に対して力を誇示した。
なかなか手が付けられないようになった。
不良の道へまっしぐらだった。
同時に勉強が出来なくなり、友達がいなくなった。
私に隠れてみんなで集まって遊んでいるのを知った時はショックだった。
いじめられていた頃よりももっとつまんなかった。
中学生になるころにはいじめられっ子でもない、いじめっ子でもない、特別勉強が出来るわけでもない、
ごく普通の生徒になっていた。
ただ当時の大阪の中でもちょっと変な子だったとは思う。
保育園に入る前の頃には家の周りには1つ2つ年上の子が数人いた。
その年代で年齢が1つ2つ変わると大きな差がある。
当時は力が支配するのが子供の社会だった。
私は勝てなかった。
何をしても駄目だった。
追いかけ回されて家に逃げ込み、家に向かって石を投げられて窓ガラスに当たり、母親が外へ出て近所の子を叱っていたことを覚えている。
力で勝てなかった私は自分に自信がなかった。
でも良いことがあった。
いじめられっ子だったお陰で頭が良くなった。
どうしたらいじめられずに関わることが出来るのか?
こういう行動発言がいじめられるんだ、ということを学んだので
いじめっ子は怖くはなかった。
保育園に入り、小学校に入って周りのメンバーは同じ関わる年齢になったが自分の中でのいじめられっ子気質は変わらなかった。
あまり目立たないように、大人しく、強い人には逆らわない、そんな風に心がけていた。
荒れていた大阪の子供の社会はなかなか厳しかった。
調子に乗るとすぐにやられた。
いじめられないようにするのを考えることは大切だった。
調子に乗りたい性格だがいじめられたくはないので必死で考えた。
考えてもそれほどうまく行かなかったが勉強で苦労しなくて済んだのはこうして考える癖がついたからだろう。
3年生のある日、いつものいじめっ子に絡まれていた。
取っ組み合いのような形だったが私はほとんどやられているだけだった。
痛くて怖くてそいつを払いのけた。
そいつは吹っ飛んで行った。
怖い顔をしてかかってきた。
恐怖のあまり私は闇雲に歯向かった。
簡単に勝てた。
もしかしたら俺は強いのかも?
そう思った私はその日からそいつをやっつけ始めたがいつも簡単に勝てた。
4年生になり3年生と同じ顔ぶれのクラスだったので私の逆襲が始まった。
これまで私をいじめていた奴らを片っ端からいじめ始めた。
いじめたというよりも暴れていた。
独りでクラスの全員に対して力を誇示した。
なかなか手が付けられないようになった。
不良の道へまっしぐらだった。
同時に勉強が出来なくなり、友達がいなくなった。
私に隠れてみんなで集まって遊んでいるのを知った時はショックだった。
いじめられていた頃よりももっとつまんなかった。
中学生になるころにはいじめられっ子でもない、いじめっ子でもない、特別勉強が出来るわけでもない、
ごく普通の生徒になっていた。
ただ当時の大阪の中でもちょっと変な子だったとは思う。
2020年04月04日
私の少年時代3 女体の神秘
問題のあるタイトルだが良い子の皆さんが期待されるような内容ではありません。
期待をせずに安心をして読んでください。
まだ小学校に上がる前の頃だと思う。
母方のおじいちゃん、おばあちゃんがいる愛媛の海沿いの小さな町で夏を過ごしていた。
市と呼ばれる街からは船で3時間もかかる陸の孤島のような小さな町だった。
青い海とミカン畑に囲まれた長閑な町で住んでいる人たちはみんな知り合いだった。
私のようなよそ者でも誰々の孫というだけでわかってもらえた。
近所には何人かの同世代の女の子がいて一緒に海水浴に行ったり盆踊りの練習に行ったりしていた。
隣の家に住んでいた二つ年上のミヤちゃんがリーダー格だった。
ミヤちゃんが突然提案した。
「いりふねのお菓子を取りに行こう。」
3人か4人の中で男は私一人だった。
港に近い小さな商店街にある小さなお店に行った。
この町の人の買い物はこのいりふねかもう一軒の店と決まっていた。
もちろん私も何度も行ったことがあった。
ミヤちゃんたちは商品棚に隠れてお菓子を手に取ったり様子を伺ったりしていた。
何も言わずにお菓子の一つを手に取るとお腹の所からスカートの中へすっと入れた。
隣にいた秀子もTシャツのおなかのところからスカートの中へお菓子を入れた。
何も考えずに私もTシャツの下のおなかの所からズボンの中へ適当なお菓子を入れた。
半ズボンを通り抜けてポトンとお菓子は下に落ちた。
小さな店で他のお客はいなかったように思う。
店のおばさんがすぐにやってきてお菓子を拾った。
ミヤちゃんたちは走って逃げた。
私はそこに突っ立ったままだった。
「あの子たちを捕まえて来て。」
おばさんはそう言うと私を店の外へ追いやった。
少しさまよった後ミヤちゃんの家に行くと皆でお菓子を食べていた。
何事もなかったかの様に私にもお菓子をくれた。
私の犯したミスを咎めることもなくごく普通にお菓子を食べていた。
ミヤちゃんはどこにお菓子を入れたのだろう?
やはり小学生になっていたミヤちゃんはもう大人で自分にはわからない秘密があるのかもしれない。
でも一つ年下の秀子にもお菓子を入れる場所があるのだろうか?
目の前にいる女たちには聞いてはいけないことの様に思ったのとミスをした後ろめたさもあって黙ってお菓子を食べていた。
いりふねのおばさんは私がだれかわかっていて見逃してくれたのだろう。
おばさんは当然ミヤちゃんのことも秀子の事もわかっていたのだろう。
母からもおばあちゃんからもこのことで叱られることは無かった。
ミヤちゃんもこのような事を私にさせたのはこの時だけでそれからは話にも出さなかった。
そうした内面的な事も含めて女は不思議だ。男とは違うぞ。そう感じた初めての体験だった。
期待をせずに安心をして読んでください。
まだ小学校に上がる前の頃だと思う。
母方のおじいちゃん、おばあちゃんがいる愛媛の海沿いの小さな町で夏を過ごしていた。
市と呼ばれる街からは船で3時間もかかる陸の孤島のような小さな町だった。
青い海とミカン畑に囲まれた長閑な町で住んでいる人たちはみんな知り合いだった。
私のようなよそ者でも誰々の孫というだけでわかってもらえた。
近所には何人かの同世代の女の子がいて一緒に海水浴に行ったり盆踊りの練習に行ったりしていた。
隣の家に住んでいた二つ年上のミヤちゃんがリーダー格だった。
ミヤちゃんが突然提案した。
「いりふねのお菓子を取りに行こう。」
3人か4人の中で男は私一人だった。
港に近い小さな商店街にある小さなお店に行った。
この町の人の買い物はこのいりふねかもう一軒の店と決まっていた。
もちろん私も何度も行ったことがあった。
ミヤちゃんたちは商品棚に隠れてお菓子を手に取ったり様子を伺ったりしていた。
何も言わずにお菓子の一つを手に取るとお腹の所からスカートの中へすっと入れた。
隣にいた秀子もTシャツのおなかのところからスカートの中へお菓子を入れた。
何も考えずに私もTシャツの下のおなかの所からズボンの中へ適当なお菓子を入れた。
半ズボンを通り抜けてポトンとお菓子は下に落ちた。
小さな店で他のお客はいなかったように思う。
店のおばさんがすぐにやってきてお菓子を拾った。
ミヤちゃんたちは走って逃げた。
私はそこに突っ立ったままだった。
「あの子たちを捕まえて来て。」
おばさんはそう言うと私を店の外へ追いやった。
少しさまよった後ミヤちゃんの家に行くと皆でお菓子を食べていた。
何事もなかったかの様に私にもお菓子をくれた。
私の犯したミスを咎めることもなくごく普通にお菓子を食べていた。
ミヤちゃんはどこにお菓子を入れたのだろう?
やはり小学生になっていたミヤちゃんはもう大人で自分にはわからない秘密があるのかもしれない。
でも一つ年下の秀子にもお菓子を入れる場所があるのだろうか?
目の前にいる女たちには聞いてはいけないことの様に思ったのとミスをした後ろめたさもあって黙ってお菓子を食べていた。
いりふねのおばさんは私がだれかわかっていて見逃してくれたのだろう。
おばさんは当然ミヤちゃんのことも秀子の事もわかっていたのだろう。
母からもおばあちゃんからもこのことで叱られることは無かった。
ミヤちゃんもこのような事を私にさせたのはこの時だけでそれからは話にも出さなかった。
そうした内面的な事も含めて女は不思議だ。男とは違うぞ。そう感じた初めての体験だった。
2020年04月02日
私の少年時代2 志村けんさん
少年時代の気持ちに戻るために~さんを外して書きます。志村けんさん失礼します。
8時だよ全員集合に志村けんが出てきた時、見習いという肩書がついていた。
見習いはすわしんじだと思っていた。
ブルースリーのものまねで「アチョー!」ってやっているのを見てブルースリーという名前を覚えた。
学校で「アチョー!」って叫んだな~。
元々のメンバーは荒井注で「なんだばかやろー」とか This is a pen. とかを真似して訳も判らずに叫んでいた。
かなりのインパクトのあるこの二人に比べてデビューしたころの志村けんはあまり印象に残っていない。
テレビ画面の中を走り回っていたのは覚えているが真似をしたのはしばらくたってからのことだ。
それはもちろん「東村山音頭」だ。
学校の運動会で「東村山音頭」をもじったものを応援に使ったような記憶がある。
今思えばあの音頭のどこがおもしろいのだろう?
一丁目はギャグそのものだが、初めに流行った三丁目などはごく普通の盆踊りで使うようなもので
少なくとも子供たちが飛びつくようなものではない。
やはり志村けんの顔やしぐさが面白かった。
なんてことの無いあの音頭を面白おかしく作り上げるなんてすごい!!
我々少年は必死になって顔をゆがめてコミカルな動きを真似た。
婦人会のようなところがドリフは食べ物を粗末にし、性的な興味を子供たちに持たせるので宜しくない、旨のお叱りがあったようにも記憶している。
加藤茶と志村けんとの絡みは特にそうだった。その部分も少年たちには受けたのかもしれない。
赤いライトが照らし出す中で二人して布団に潜り込むギャグを見て家族みんなでハラハラドキドキしたことだろう。
男女二人で布団に入ると赤ちゃんが生まれるっていう事を初めて知った。
不思議だった。
それらすべてを含めて昭和の良き時代の思い出だ。
おじいちゃんやおばあちゃんから子供まで家族みんなで一台のテレビを見ていた。
子どもたちが真似をする姿を見て大人たちが眉をひそめていたのだろう。
学校で真似をする姿を見て先生たちは怒っていたのだろう。
私の少年時代に大きな影響を与えてくれたな~と今になってつくづく思う。
家族で過ごした懐かしい思い出でもある。
8時だよ全員集合に志村けんが出てきた時、見習いという肩書がついていた。
見習いはすわしんじだと思っていた。
ブルースリーのものまねで「アチョー!」ってやっているのを見てブルースリーという名前を覚えた。
学校で「アチョー!」って叫んだな~。
元々のメンバーは荒井注で「なんだばかやろー」とか This is a pen. とかを真似して訳も判らずに叫んでいた。
かなりのインパクトのあるこの二人に比べてデビューしたころの志村けんはあまり印象に残っていない。
テレビ画面の中を走り回っていたのは覚えているが真似をしたのはしばらくたってからのことだ。
それはもちろん「東村山音頭」だ。
学校の運動会で「東村山音頭」をもじったものを応援に使ったような記憶がある。
今思えばあの音頭のどこがおもしろいのだろう?
一丁目はギャグそのものだが、初めに流行った三丁目などはごく普通の盆踊りで使うようなもので
少なくとも子供たちが飛びつくようなものではない。
やはり志村けんの顔やしぐさが面白かった。
なんてことの無いあの音頭を面白おかしく作り上げるなんてすごい!!
我々少年は必死になって顔をゆがめてコミカルな動きを真似た。
婦人会のようなところがドリフは食べ物を粗末にし、性的な興味を子供たちに持たせるので宜しくない、旨のお叱りがあったようにも記憶している。
加藤茶と志村けんとの絡みは特にそうだった。その部分も少年たちには受けたのかもしれない。
赤いライトが照らし出す中で二人して布団に潜り込むギャグを見て家族みんなでハラハラドキドキしたことだろう。
男女二人で布団に入ると赤ちゃんが生まれるっていう事を初めて知った。
不思議だった。
それらすべてを含めて昭和の良き時代の思い出だ。
おじいちゃんやおばあちゃんから子供まで家族みんなで一台のテレビを見ていた。
子どもたちが真似をする姿を見て大人たちが眉をひそめていたのだろう。
学校で真似をする姿を見て先生たちは怒っていたのだろう。
私の少年時代に大きな影響を与えてくれたな~と今になってつくづく思う。
家族で過ごした懐かしい思い出でもある。
2020年04月01日
私の少年時代1 暇な夏休み
当時の大阪の子供たちには40日の夏休みがあった。
私は40日間何もすることがなかった。
宿題のほとんどは休み前に終えていた。
残った分は休みが終わってから片付けた。
「夏休みなんやから休まんとな、、」
これが言い分だった。
暇だと色々と考える。
低学年の頃によくやったのは干拓だった。
学校で習った干拓を家の前の水たまりで実践していた。
まずは水たまりに土や小石で防波堤をイメージした仕切りを作った。
その内側の水を掻き出した。
水が無くなったところに土を入れて水たまりを小さくした。
僅かではあるが日本一面積が狭い大阪府の面積が増えたと本気で思っていた。
今では大阪の面積は埋め立てによって香川県を抜かしたらしい。
私の貢献もあったのかもしれない。
雨が降ったら私の努力は水の泡と消えた。
庭に池を作った。
穴を掘って水を入れた。
捕ってきた魚を入れた。
翌朝見ると水はなくなり魚は日干しになっていた。
ゴミ袋を池の底に敷いて土をかけて水を入れた。
また魚を捕まえて池に入れた。
翌朝やはり魚は日干しになっていた。
近くの田んぼでホタルをとった。
大阪の郊外だったが蛍はいくらでもいた。
コーラの瓶に草と蛍を入れるとランタンのように明るかった。
次の日の夜そのランタンが光ることは無かった。
近所を走る車のナンバープレートを記録した。
大阪52 け 12-34 とか書いたやつだ。
沢山記録した。
どこのナンバーが多いのかを調べようかと思ったがほぼすべてが大阪ナンバーだった。
せめて国道一号線まで行けばよかった。
光化学スモッグが出ると学校の運動場で野球をした。
黄色い旗の注意報は危険なのでしなかったが緑の予報はまだ大丈夫だと思った。
友達を誘って誰もいない運動場で野球をした。
誰もいない運動場は新鮮だった。
幸い倒れた友達はいなかった。
毎日のように樟葉モールへ行った。
自転車で20分くらいの距離にあるショッピングモールだ。
汽車の広場には山口百恵や中森明菜も来たことがあった。
仮面ライダーも来た。
そこへ行けば誰か友達がいた。
高学年になると淀川に行って釣りをしているおじさんと仲良くなった。
いつも赤いちゃんちゃんこを着た釣り会の人たちが可愛がってくれた。
時にはおじさんの釣り竿を借りて釣ったりもした。
赤いちゃんちゃんこのおじさんたちは勝手に石を組んで足場を作って他の人がそこで釣れないようにしていた。
いくつも作っていた。
もちろん私は出入り自由だった。
あとになって聞いたのだが、その人たちは怖いグループのOBの人たちだったらしい。
そう言えばそんな気もする。
毎日毎日暇だった。
何をしようかと毎日考えた。
塾や習い事は何もなかった。
家に一台しかないテレビは高校野球しかやっていなかったように記憶している。(そんなはずはない)
セミやカブトムシは保育園で卒業していた。
魚とりもほぼ卒業していた。
少しだけ読書もした。
百科事典とセットで親が勝手に買った日本の歴史という本があった。
10巻ほどある分厚い本だった。
面白くなかった。
もったいないので全部読んだ。
何故か時々飛ばして読んだ。
今思い出してもバカな子供だった。
今も大して変わってはいないか。。。
私は40日間何もすることがなかった。
宿題のほとんどは休み前に終えていた。
残った分は休みが終わってから片付けた。
「夏休みなんやから休まんとな、、」
これが言い分だった。
暇だと色々と考える。
低学年の頃によくやったのは干拓だった。
学校で習った干拓を家の前の水たまりで実践していた。
まずは水たまりに土や小石で防波堤をイメージした仕切りを作った。
その内側の水を掻き出した。
水が無くなったところに土を入れて水たまりを小さくした。
僅かではあるが日本一面積が狭い大阪府の面積が増えたと本気で思っていた。
今では大阪の面積は埋め立てによって香川県を抜かしたらしい。
私の貢献もあったのかもしれない。
雨が降ったら私の努力は水の泡と消えた。
庭に池を作った。
穴を掘って水を入れた。
捕ってきた魚を入れた。
翌朝見ると水はなくなり魚は日干しになっていた。
ゴミ袋を池の底に敷いて土をかけて水を入れた。
また魚を捕まえて池に入れた。
翌朝やはり魚は日干しになっていた。
近くの田んぼでホタルをとった。
大阪の郊外だったが蛍はいくらでもいた。
コーラの瓶に草と蛍を入れるとランタンのように明るかった。
次の日の夜そのランタンが光ることは無かった。
近所を走る車のナンバープレートを記録した。
大阪52 け 12-34 とか書いたやつだ。
沢山記録した。
どこのナンバーが多いのかを調べようかと思ったがほぼすべてが大阪ナンバーだった。
せめて国道一号線まで行けばよかった。
光化学スモッグが出ると学校の運動場で野球をした。
黄色い旗の注意報は危険なのでしなかったが緑の予報はまだ大丈夫だと思った。
友達を誘って誰もいない運動場で野球をした。
誰もいない運動場は新鮮だった。
幸い倒れた友達はいなかった。
毎日のように樟葉モールへ行った。
自転車で20分くらいの距離にあるショッピングモールだ。
汽車の広場には山口百恵や中森明菜も来たことがあった。
仮面ライダーも来た。
そこへ行けば誰か友達がいた。
高学年になると淀川に行って釣りをしているおじさんと仲良くなった。
いつも赤いちゃんちゃんこを着た釣り会の人たちが可愛がってくれた。
時にはおじさんの釣り竿を借りて釣ったりもした。
赤いちゃんちゃんこのおじさんたちは勝手に石を組んで足場を作って他の人がそこで釣れないようにしていた。
いくつも作っていた。
もちろん私は出入り自由だった。
あとになって聞いたのだが、その人たちは怖いグループのOBの人たちだったらしい。
そう言えばそんな気もする。
毎日毎日暇だった。
何をしようかと毎日考えた。
塾や習い事は何もなかった。
家に一台しかないテレビは高校野球しかやっていなかったように記憶している。(そんなはずはない)
セミやカブトムシは保育園で卒業していた。
魚とりもほぼ卒業していた。
少しだけ読書もした。
百科事典とセットで親が勝手に買った日本の歴史という本があった。
10巻ほどある分厚い本だった。
面白くなかった。
もったいないので全部読んだ。
何故か時々飛ばして読んだ。
今思い出してもバカな子供だった。
今も大して変わってはいないか。。。