2025年03月01日
吉田塾歩く会の復習

昨日金曜日は吉田塾歩く会の復習をした。
秋に塾のお母さんたちと歩いたルートを辿ってみた。
一心館から中沢の急坂を登り、コマカッパがある水道施設を通り過ぎる。
捨て猫を置いていかれて死にそうに弱っていたので獣医に連れて行ったが次の日に死んじゃった。ひどいことをするもんだ。と坂の途中の家の人が憤っていた。
ネコ飛び出し注意とのぼりを立てている家だからネコ好きの人がいるかと思って置いていったのかも知れない。
元の持ち主がすてずに医者に連れて行ってれば助かったかも知れない。
林道を通り過ぎると下り坂になる。
大曽倉への舗装道路だ。
その日陰にこの写真の水路があった。
随分と暖かくてずっと登りを速足で歩くとかなり汗が出るくらいだが日陰はまだ真冬だった。
昨日の夕方に火事があったのはきっとこの水路の近くの家だろう。
火事は怖い。
Minoriでサンドイッチを作って貰っている間に中央アルプスを眺めた。
「俺って贅沢やな〜」と思わず呟いた。
例のぶどう屋の道よりも一つ南を下って天竜川へ出た。
暖かった。
2025年02月28日
私の子どもは私よりも勉強が出来ないのはなぜ?

「私の子どもは私よりも勉強が出来ないのはなぜ?」
塾の親御さんから問い合わせがあったので考えてみた。
実際に親御さんの方が得意なのならその理由は私にはわからない。
しかしそうではない場合がある。
まずは勘違いというか思い込みだ。
私の様な厚かましい性格の大人は自分に都合が良い様に過去を作り変えてしまう。
「勉強が出来て、スポーツが得意で、ケンカが強くて、モテた。」と息子達に語っていたが、「全然そうではなかった」と実家の母が息子達に話した。
嘘をついた覚えはなく、「あれ?そうやった?」と思った。この様な勘違いはありがちだ。
次は子ども全体の学力低下だ。
20数年前にこの仕事を始めた時に子どもの学力低下を感じた。教育に関わる仕事をしていなかったので自分の子どもの頃との比較だが、のんびりしていて、数字の競争に強い関心が感じられない子どもが多かった。
都会と比べて数が少ない子どもの数が少子化でさらに減り、誰もが近くの公立高校に進める地域だからかと思った。
それはそれで幸せかとも思った。
当時は駒ヶ根や伊那の塾や家庭教師の先輩数人と話したがどの人も「学力低下、幼児化」を嘆いていた。
それから20年が経ってさらにその傾向が進んだと感じる。
『子どもが少ないなら学校でしっかりとみて貰える』と考えたが、そのメリットよりも『競争心の無さ』のデメリットの方が大きい様だ。
競争心を育てるのかのんびりとした環境で育てるのか、どっちが良いかはそれぞれの判断だが、テストの点数に影響を与えるのは間違いない。
もう一つは学校の勉強が難しすぎることだ。
「仮定法過去」という英語の文法があるが今の中3はこれを習う。「もし私が鳥ならば、あなたの元に飛んでいくのに」というやつだ。
これって去年はあった?
数年前には高2で習った範囲だ。
学校で習う内容が増えている。難しいことを沢山習う。
積み残しが多くなっている。
テスト自体も難し過ぎる。
20年前のこの辺りの中3のテストを見ると驚くことにたった1枚しかない。当時の「良くできる生徒」は100点や90点以上を取ることも珍しくなかった。
五教科合計で400以上はザラにいた。
ちなみに平均点は今と大して変わらない。
ヤンチャな人は五教科で50点程度しか取らなかったからだ。
なぜあんなに難しくひねくったテストなのだろう。
学校の授業ではそのテストに対応するための準備はしていないだろう。
20年前の中3の社会のテストで「新研究」の歴史年表がそのままコピーして出された。「ここが出るぞ〜」と予め授業で言ってくれた様で多くの生徒が満点だった。
『それで良いやん』
難しいテストにしても考える力は付かないよ。
むしろヤル気がなくなる。
さらに教師の問題もあるだろう。
心身の不調で学校を休む教師が多くて授業が成立しないのはもはやどの生徒も経験する。
休む教師の何倍もの心身不調で悩む教師は多いだろう。
そんな人がどこまでちゃんと授業が出来るだろう。
厳しくすれば「パワハラ」と言われる。
子どもなのにプライバシーや人権を必要以上に訴える。
教師は事なかれ主義になるしかない。
この様に学校が上手く機能せずにいる。
教科書の内容をきちんと理解して覚えている生徒は少ないだろう。それをさらにひねってテストにするので点数は低くなり、基本内容さえも覚えようとしない。
「基本なんかやってもテストには応用しか出ない」と言う。
「基本が出来ず、すぐに音を上げる君に応用なんか出来るか」と言いたい。
この様に本当に勉強が出来ないのもある。
まあ、焦ってもしゃーないんとちゃう?
それがわが子や。
お母さんが産んで夫婦で育てた子や。
「元気で明るく友達が沢山いる人に育って」と産まれた時には思ったた子や。
その通りになってる。
まだ少しだけ子育ては続く。
ストレスを溜めすぎない様に楽しんでください。
2025年02月27日
障害者施設でボランティアをした頃の話し

一度ブログにアップしたものですが、ふと思い出したので少し手を加えて再度アップします。
20代の頃、大阪で市の広報誌にボランティア募集を見かけた。
「話し相手や遊び相手などでも良いので気楽に参加してください」と書いてあったので連絡してみた。
JRの高架下に小さな障害者施設があった。
8人程度の障害者が利用していた。
10代20代の若い人が多かった。職員と他のボランティアは親世代の人が多かったが、私は同世代だったこともあり意外とすぐに仲良くしてくれた。
障害の重い人が多くてほとんどが車椅子に乗っていた。会話のやり取りが出来る比較的障害が軽い人を受け持つことが多かった。
何度かボランティアに行ったが、おしゃべりと散歩の補助が多かった。
同年代の2人の利用者と親しくなった。
利用者の数に対して職員とボランティアの数が足りない日があった。
ただの散歩なので職員にとっては大した問題ではなかった。
仲良くなった2人の車椅子を私が1人で押そうと何故か3人で盛り上がった。
二台を横に並べて押そうとしたがまっすぐ進まない。
縦に並べてみた。
車椅子に乗る人に前の車椅子を押してもらい私がその後ろから押すという作戦だった。
何回かやったがこれもまっすぐ進まない。
車椅子に乗った人も私も一緒になって考えて、そして笑った。
食事の介助もした。
たくさん口の中に入れすぎてむせさせてしまった。
それでもみんな笑ってくれた。
明るくて楽しい人たちが多かった。
そんな利用者の中に私の事をお兄ちゃんと呼ぶ女性がいた。
彼女は他の障害者のリーダーというか姉貴的な存在だった。
車椅子には乗っておらず少し会話をするまでは知的障害があると気がつかないくらいだった。
「お兄ちゃん、うち、売れ残りやねん。」
彼女が突然そう言った。
「え?」
「うち、こんなんやから誰ももらってくれへんねん。」
「お兄ちゃんも結婚してるんやろ?」
「うん」
「うちは誰ももらってくれへんねん。」
「お兄ちゃんゆうてるけどうちの方が年上やと思うわ。」
「うち、三十やで。」
私は何も言えなかった。
「でもお兄ちゃん、いつも来てくれてありがとう。お兄ちゃんと喋れて楽しいわ。これからも来てな。」
あの彼女は今頃は立派な体格の大阪のおばちゃんになっているだろうか。
どこかで見かけてもお互いに気が付かない。
顔も名前も覚えていない。
でもきっとあの時の会話は覚えているだろうな。。。
写真はその当時の大阪城です。
そこから幾つか駅を行った所に施設がありました。
2025年02月26日
義務教育の充実を望む

中学生を見ているとテストがドンドン難しくなる一方で知識がドンドン減っている様に思う。
高校入試が難しくなっているのを見越して中学のテストが難しくなっている。
平均点が40点とか50点で、100点を取る人などほとんどいない。
『義務教育って何?』と思った。
「必要な基礎学力と必要なルールを身に付けることと日本人としての人格形成をすること」らしい。
義務教育は基礎学力を身に付けるためのものだったらテストはその人の学力を計るものではなくて身に付けさせるためにやるべきものだ。つまり教えることは全員が全てみにつけなくてはいけない。
「ひらがなを読む、足し算引き算が出来る」
この辺りは大丈夫だろう。
「九九が出来る、漢字が読めて書ける」
ここはヤバい。
九九が怪しい中学生は沢山いる。
漢字に至っては義務教育で習うものさえも無理だ。
私もきっと無理だ。
少し前に創立150年だった小学校が多い。
明治維新後の学制で出来た学校が150年になった。
国家の近代化を進めるのに役立つ人を育てるために必要な学力をつけるための学制だ。
義務教育は自分のために、国のために、より良い社会のために必要なことを学ぶものだ。
そうであれば個々人の習熟度の差を計る高校入試とは別物で全員が満点にならなければならない。
ひらがなや九九を学んだ時の様に家庭での頑張りも不可欠だ。
学校はきっかけを与えて、自宅で頑張って、学校で披露する。
親も学校に丸投げではいけない。
学校でやる内容はかなり減らして易しいものにしなくてはいけない。
そして内容を吟味して常に更新していかなくてはならない。
東北の震災があったり、コロナ禍があったり、地球温暖化、少子高齢化、ウクライナ侵攻、様々な出来事があると義務教育でやるのかどうかを吟味しなくてはいけない。
運動能力の低下や集中力の低下にも対応しなくてはいけない。
先生が黒板で教える必要はない。
「教科書を読んでいるだけ」やろ。
デジタル機器を使えば良い。
先生の役割りも見直さないと先生そのものがいなくなりそうだ。
中学生の勉強は高校入試のためではなくて、
知識と教養を身につけて、世の中を良くするためでなくてはならない、そのための義務教育にしてほしい。
テストを難しくし過ぎて子ども達の学ぶ意欲がなくなり、元気がなくなるのはダメでしょう。
100点をもらうと嬉しいと思うのだが。
2025年02月25日
頑固じじいでなくて優しいおじいちゃんになる為に四国を歩け

私の同級生は皆さんえらくなっている。
会社の社長や市役所の部長や議員、医者や弁護士、裁判官、校長に支店長、
年齢的にえらくなるのは特別なことではないだろう。
数年経ては仕事と肩書を奪われてしまう。
その時に攻撃的で融通が効かず、気配りが出来ない、さらにネット社会から落ちこぼれた頑固じじいになる懸念がある。
近隣住民とのトラブル、カスタマーハラスメント、ネットでの過激な書き込み、などはこの年代の男性に多いらしい。年齢とともにだんだんそうなる人が多いらしい。
肩書や役職や会社の名前がなくなり、出来ないことがあからさまになるとそうなるとらしい。
『気をつけないといけない』と思う。
そうなると人が離れていき、出来ることがさらに減ってくる。
数年前に四国を歩いた時にはその年代の先輩が多かった。
頑固じじいは見かけなかった。
四国一周1200㌔を歩き通すには頑固じじいでは無理だ。
肩書などは全く通用しない。
お金さえも通用しない。
弘法大師に触れる為には謙虚でなくてはならない。
皆さん、優しいおじいちゃんだった。
「あのトンネルは凄く怖かったですよね。後ろからトラックのごう音が聞こえてきたら痛い足を引きずるように走りましたよ。」
少年の様に目を輝かせてそんな話しをしてくれる。
60代で退職して数年は顧問とかで出社して、やがて完全に仕事が無くなると自分の周りには何もないことに気がつく。その状態が数年続くと頑張って夢中になっていた頃を思い出して何かを頑張りたくなる。
四国お遍路を歩くことにチャレンジすることを選ぶ人がいる。
1200㌔、40~50日間、すっと30㌔とかを歩く。
飯や宿や道さえも自分で探さなければいけない。
何よりも足が痛い。
登山の様な山道が幾つもある。
私の様な若造?でさえきつかった。
宿や食堂がある事に感謝した。
「お接待」として飲み物などを頂くと感動する。
知らない人と話せる様になる。
通学の小学生が挨拶してくれる。
ネコやらタンポポにまで話しかける。
お地蔵さんにも話しかける。
私も沢山の歩く人と喋ったが現役の時にどんな肩書だった人なのかは全く知らない。そんな話しよりも「トンネルの話し」や「寝るところの話し」「山道の話し」の方が重要だ。
お遍路を終えて家に帰りしばらくするとまた歩きたくなり体を鍛えるそうだ。「お遍路病」というらしい。
優しいおじいちゃんで居続けるのはなかなか大変なのだろう。
俺もそろそろ歩かないと。
写真の怪しい格好は日差しと花粉を避ける為です。
2025年02月24日
社会科から学んだこと

私はあまり優秀な学生ではなかった。
学校は遊びに行くものだと思っていた。
学生時代に勉強したことで世の中に活かしていることと言われても思い浮かばない。
覚えていることさえもあまりない。
社会科で覚えているのが帝国の存在だった。
資料集を眺めると大英帝国やモンゴル帝国やインカ帝国、オスマン帝国などの装飾品が載っていた。
『トルコが力を持っていたのはそんな昔々のことじゃないんや』と驚いた。
色んな国が戦って大きな力を持ったり滅びたりした。
「栄枯盛衰」というやつだ。
社会人になった頃は日本の景気は良かった。
サラリーは毎年3%ずつ上がるものだと思われた。
定期預金の金利は10%だった。
『定期預金や株に投資するとめっちゃ増える』と思った。
世界一の大国であるアメリカさえも日本が買おうとしていた。
友人達はローンを組んで家を建てたり、会社を作ることに躊躇がなかった。
「日本の時代はずっと続くわけではないだろう」と何となく思った。
それは帝国の栄枯盛衰を考えてだ。
数百年も帝国が続いた国もある。
日本もそうであって欲しいと思っていた。
やはり不安なので慎重に生きた。
思ったよりも早く日本の衰退が起こっている。
過疎化は予想できても少子化は考えもつかなかった。
『おじいちゃんよりお父さん、お父さんよりも俺ら』の方が兄弟が少ないのに気が付かなかった。
大きな失敗をせずに今まで生きてこられたのは社会科から学んだことが体のどこかに染み付いていて、大きなチャレンジをして大成功を目指そうとしなかったことだろう。
『自分ならやれるやろ』と天狗になっていた自分にブレーキをかけてくれたのは社会科から学んだことだったと思う。
2025年02月23日
光前寺

2日前に自宅から光前寺まで歩いた。
境内には誰もいなかった。
三重塔の下にある東屋が好きな場所だ。
すぐ後ろの小川は半分凍っているが水が流れる音がしている。
真冬だと完全に凍っているが今日は少しだけ春を感じる。
写真はその小川だ。
この場所は夏は涼しく、秋は紅葉が美しい。
そして間もなく訪れる春には桜と鳥と川のせせらぎが心地よい。
帰りは光前寺を出て数年前に出来たフルート工場の横から水路沿いを歩く。
水路沿いの道は夏でも涼しい。
クマが出そうで怖いので声を出したり、手を叩いたりしながら歩く。
野球場の手前で下り坂を行く…
スピードを出して歩くと心地よい。
正面には南アルプスが見える。
振り返ると千畳敷が見える…
少し大回りをして往復10㌔だ。
宜しければどなたでもご一緒しますよ。
2025年02月22日
私の今の目標

公立高校の後期試験まであと2週間と少しだ。
私の今の目標はその2週間までの10回ほどの塾を休まずにやるということです。
『なんだ?その目標は、』と思われる人もいるかも知れませんが、これってかなり大変なことです。
コロナだけではなくてインフルエンザも流行っている中で休まずに塾に来てくれた生徒は少ないです。
休まないというのは簡単ではありません。
私が休めば毎回10人以上の生徒に迷惑をかけます。
今、私が塾を休んでも生徒の皆さんは実質的には大した影響はないでしょう。
それでも気持ちの上では不安でしょう。
やはりあと2週間を休まずに過ごさないといけません。
受験生には受験生の目標があるでしょう。
2年生には2年生の目標があるでしょう。
私の目標はあと2週間を無事に過ごす事です。
この目標を達成すれば私はお休みです。
その先のことはまだ考えられません。
落ち着いたら次を考えます。
2025年02月21日
中学生相手の塾の難しさ

『勉強を教えるなんて簡単なことやろ』
この仕事を始める時にはそう思った。
『解き方を説明して実際にやらせばすぐに出来るやろ』
そう思った。
親御さんの中にもそう思っている人が多いと感じる。
数学や理科の易しい問題なら少し説明すれば
「解りました〜」と言ってくれる。
社会の用語なら「ここは木曽山脈や」と教えるだけ。
英語の教科書を訳すのも出来る。
国語なんて日本語だ。
そしたらなんでテストで40点とか50点なのだ?
難しい問題が出来なかったとしても80点くらいにはならないものか?
きっとそこが中学生に勉強を教える難しさなのだろう。
大人が同じ問題に取組めば80点くらいは取れるだろう。
この仕事を始めた時には連立方程式の普通の計算すら出来なかった私が今はだいたい全部出来るのだから。
各生徒と一緒に勉強の計画を作ったことがあった。
次に教えに行った時には既に計画から遅れていた。
目標を一緒にたてたこともあった。
「頑張る」「400点を取る」「英語を平均点以上にする」
実行されることはなかった。
私が鬼になったこともあった。
「宿題を出してください」と親が言うので出すが、
やらないことが続いた。
私は厳しく叱った。生徒は震え上がっていた。
「次は絶対にやっておきます」
と言ったがそれでも半分くらいしかやらなかった。
頭にきた私は途中でその生徒の家から帰った。
「お前なんかもう辞めてしまえ」
と捨てゼリフを残して。
電話をかけてきて泣きながら叫んでいた。
「今度は絶対にやります。」
今度は確かにやったがその次は足りなかった。
また叱りつけて家を出なくてはいけないのか?
疲れた。
相手は生身の人間だ。
しかも中学生という一番ややこしい年頃だ。
親御さんはわが子の普段の姿を知っているのだろうか?
学校の授業中にどういう態度でいるのか?
「とりあえずそこに座っているのなら何かを身につけよう」
寝てたり、ボーッとしてたり、解らないのを放っていたりしてないか?
学校でやったことは少しだけでも自宅で見直そう。
わざわざ一度全部忘れてから塾で教えて貰うのは間違いだ。
親が寝静まったあとでゲームやチャットやユーチューブ、さぞ楽しいだろう。
学校では人間関係が難しくてそれを頑張らないといけない。
部活動でも色んなややこしいことがおきる。
思い荷物を持って学校まで歩くのもキツイ。
そんな中で勉強を立てた計画通りにやったり、
学校の宿題に加えて塾の宿題まで出来るのか?
親御さんはお子さんの姿を出来るだけ多く見たほうが良い。参観や懇談会、部活動、登下校、塾の懇談会など沢山見たほうが良い。
一緒にご飯を食べて様子を見たほうが良い。
そうすれば杓子定規に計画とか宿題とか塾とかで良くならないのがわかる。
「色んな好きなこともやらせたい」
そう言って部活動をやり過ぎたり、趣味の習い事をさせたりして、家に帰れば切り替えて勉強をするか?
きっと疲れて寝ている。
「新研究をたくさんやろう」
「入試の過去問題集をたくさんやろう」
そう言ってもやるのは塾に来た時だけの生徒がいて、
家でやる生徒がいる。
家でやる生徒にも継続的に丁寧にやる生徒と、片付け仕事の様にやる生徒がいる。
そのまま点数に反映される。
内申点の良し悪しを見れば学校での姿勢がわかる。
それがその人の今の実力だ。
それをしっかりと受け止めて『何とかしよう』と自分で思えば少しずつ良くなる。
その気持ちがあって初めて親や塾の言う事が耳に入る。
やるかやらないかが勝負の大半だ。
気持ちを盛り上げることが塾の仕事だ。
やらせ過ぎるとすぐに潰れてしまう。
「難しい」
「俺も疲れた」
あと2週間で休養に入ります。
2025年02月20日
男子生徒は頑張れ!!

長野県公立高校の前期試験の結果が出た。
女子生徒はみんな受かった。
既に私立高校を決めた女子生徒も合わせると
吉田塾では既に半数以上の女子生徒は合格した。
昔々、私が中3だった頃の大阪の公立高校は推薦試験がなくて一発勝負の学力試験に内申点を数字として加算する方式だった。『態度が悪いから内申も悪いやろ』と思っていたが想像以上に悪かった。『教師に嫌われとったんや』と遅ればせながら気付いた。
今の生徒も同じだ。テストの点数と通知表を比べた時に男女で差がある。想像以上に悪い男子と想像以上に良い女子がいる。
「差別じゃん!」とわめく男子よ。そんなのだから先生から煙たがられるんじゃ。
学校の先生も人間だ。孤独で寂しい想いをしている先生が多いので盛り上げる女子、笑顔の女子、に比べて「大丈夫です」と顔も向けずに言う男子とどっちをカワイイと感じるかだ。
塾でも同じだ。女子生徒が来てくれて嬉しいのは私がスケベだからではない。女子生徒は笑顔で「ここが解らないんです」と言って来てくれる。自宅からラインで質問をするのはほぼ女子だ。忘れ物や屁理屈が多く、面倒くさいのが男子だ。
女子率が多い年と男子率が多い年では盛り上がりが違う。
でも男達よ。心配するな。俺も男だ。知っていたか?
私の子どもは3人とも男だ。誰に似たのか皆さんよりも面倒くさい。
俺は差別はしない。男女関係なく応援する。男子生徒も出来るだけかわいくいてくれ。しかしスカートは履いてくるな。
塾はあと2週間で終わるが君たちは高校生となる。
高校生になったら中学の反省で少しだけかわいくなれ。
先生を無視したり、「黙れ!」と怒鳴ったり、授業中に突然出ていったりするな。
「先生〜数学を教えてください!」と甘えてみろ。
半分は冗談の様に書いたが男女関係なくかわいく生きると良いことがある。
俺はいつまでもかわいくなれない。
2025年02月19日
恋にならなかった思い出
以前書いたものですが少し手直ししました。
高校三年生の冬だった。
学校のストーブの周りに集まってけだるい時間を過ごしていた。
学校での主導権は下級生に譲ってしまっていた。
部活が終わり、生徒会が終わり、恋も終わり、友人関係も終わり、まるで青春が終わったような寂しさと虚しさを感じていた。
そして目の前に迫った受験や友との別れに怯える日々を過ごしていた。
いつも同じメンバーでいたので弾む様な話題はなかった。
「最近、酒田さん(仮名)が可愛くなったんちゃう?」
誰かがポツリとそう言った。
酒田さんはクラスの女子生徒で、真面目で大人しくあまり目立つ存在ではなかった。
私は話した記憶さえもない。特別美人ということもなく、意識をしたことの無い生徒だった。
勉強が特に出来る訳ではなかったがコツコツやっていた様で就職組ではトップクラスの松下電器(パナソニック)の本社に決まっていた。
「誰かに恋でもしてるんとちゃうん?」
少ししてから俺が何気なくそう言ったもののそれに突っ込んでくる奴はいなかった。
「誰やろ?」
そんな詮索に発展することもなく、また無言のけだるい時間が流れた。
2月になり、登校する機会がなくなったある日、担任から連絡網が回って来た。
「酒田さんのお父さんが亡くなり葬儀に参列する。14日に来るように。」
バレンタインデーだったがワクワクするような予定もなく、参列することにした。
酒田さんは別の中学で家は遠かった。住宅街にある小さなお好み焼き屋をやっていたが食べに行ったことは無かった。
クラスのほとんどが集まったが、同窓会の様な盛り上がりはもちろん無かった。
我が事の様な悲しさもまた感じなくてどこか他人事の様に見ている自分がいてそのことに違和感を覚えた。
あれから長い時間がたった今でも参列したときのことはよく覚えている。
周りの人にしきりに頭を下げるお母さん、遺影を持って黙ってうなだれる酒田さん、泣きじゃくる小学生の弟の3人の姿だ。
小さな店と家を見て『この店で家族を養うのは大変やったやろうな、それも出来なくなるお父さんは辛いやろうな』と思った。
その時は父親が亡くなるなんて我が事として考えられなかったのだが、遺された家族の姿を見て何とも言えない暗くて辛い気持ちになった。
同級生との会話をいくらもしないまま式が終わると家に帰った。「喫茶店にでも行かへんか?」と言うやつさえもいなかった。
その10日後の2月24日が高校の卒業式だった。
就職が決まった奴、進学が決まった奴、これから受験の奴、この日にクラスメイトの進路を確認しあうこともあった。
大きな声での会話や笑い声に満ち溢れて久々に楽しい気分になった。
友達同士で写真を撮りあった。何枚も撮った。
あまり喋ったことが無いような奴とも撮った。
「一生会わない奴がいっぱいいるんだろうな」
そんなことを考えながら沢山の同級生と写真を撮った。
「吉田君、一緒に写真撮ってくれる?」
話したことさえない大人しい女子が二人でやってきた。
「ええよ。」
特になんてこともなくそう答えた。
彼女らは私を促して教室から少し離れたところに行った。
そこには酒田さんがいた。
みんなで撮るのではなくて酒田さんと二人での写真だった。
微妙に距離を置いてポケットに手を突っ込んでぎこちなく微笑む俺がいる。
ニコニコした笑顔の酒田さんは後輩から貰った小さな花束を持っている。
何十年も経った今でも家のどこかにそんな写真はあるはずだ。
「これ、もらって。」
酒田さんから何かを渡された。
家に帰ってから開けてみるとチョコレートだった。
海賊ゲームの様な器にウイスキーボンボンが入っていた。
そこにはカードが添えてあった。
『10日遅れのチョコレートですが食べて下さい。』
そして短い詩が書いてあった。
窓の外の冷たそうな月を見てあなたを想う、といった内容だった。
『この人は頭ええなー』とバカみたいに思ったのが第一印象。
『お父さんが亡くなるってどんなにつらいんだろう。
そんなときも俺の事を考えていてくれたんだろうな。』
そんな風に思うと感動した。
もう会う機会はないのでお礼の電話をした。何を言って良いかわからくて、思いつきで「京都の嵐山に一緒に行こう」と誘った。
少しだけ口紅を付けてイヤリングをして来た。高校生の時からすれば「さすが社会人」という感じだった。
竹の中の小路でイヤリングが取れて笑いながら一緒に拾った。誰がどこへ進むといったクラスメイトの話題しか話すことがなかった。同じクラスにいたがほとんど接点がなかったので盛り上がる話しが出来なかった。
恋に発展することはなかった。何故2回目がなかったのかさえも覚えていない。
高校の卒業式はバレンタインの10日後で覚えやすいこともありこの時のことはよく覚えている。
高校三年生の冬だった。
学校のストーブの周りに集まってけだるい時間を過ごしていた。
学校での主導権は下級生に譲ってしまっていた。
部活が終わり、生徒会が終わり、恋も終わり、友人関係も終わり、まるで青春が終わったような寂しさと虚しさを感じていた。
そして目の前に迫った受験や友との別れに怯える日々を過ごしていた。
いつも同じメンバーでいたので弾む様な話題はなかった。
「最近、酒田さん(仮名)が可愛くなったんちゃう?」
誰かがポツリとそう言った。
酒田さんはクラスの女子生徒で、真面目で大人しくあまり目立つ存在ではなかった。
私は話した記憶さえもない。特別美人ということもなく、意識をしたことの無い生徒だった。
勉強が特に出来る訳ではなかったがコツコツやっていた様で就職組ではトップクラスの松下電器(パナソニック)の本社に決まっていた。
「誰かに恋でもしてるんとちゃうん?」
少ししてから俺が何気なくそう言ったもののそれに突っ込んでくる奴はいなかった。
「誰やろ?」
そんな詮索に発展することもなく、また無言のけだるい時間が流れた。
2月になり、登校する機会がなくなったある日、担任から連絡網が回って来た。
「酒田さんのお父さんが亡くなり葬儀に参列する。14日に来るように。」
バレンタインデーだったがワクワクするような予定もなく、参列することにした。
酒田さんは別の中学で家は遠かった。住宅街にある小さなお好み焼き屋をやっていたが食べに行ったことは無かった。
クラスのほとんどが集まったが、同窓会の様な盛り上がりはもちろん無かった。
我が事の様な悲しさもまた感じなくてどこか他人事の様に見ている自分がいてそのことに違和感を覚えた。
あれから長い時間がたった今でも参列したときのことはよく覚えている。
周りの人にしきりに頭を下げるお母さん、遺影を持って黙ってうなだれる酒田さん、泣きじゃくる小学生の弟の3人の姿だ。
小さな店と家を見て『この店で家族を養うのは大変やったやろうな、それも出来なくなるお父さんは辛いやろうな』と思った。
その時は父親が亡くなるなんて我が事として考えられなかったのだが、遺された家族の姿を見て何とも言えない暗くて辛い気持ちになった。
同級生との会話をいくらもしないまま式が終わると家に帰った。「喫茶店にでも行かへんか?」と言うやつさえもいなかった。
その10日後の2月24日が高校の卒業式だった。
就職が決まった奴、進学が決まった奴、これから受験の奴、この日にクラスメイトの進路を確認しあうこともあった。
大きな声での会話や笑い声に満ち溢れて久々に楽しい気分になった。
友達同士で写真を撮りあった。何枚も撮った。
あまり喋ったことが無いような奴とも撮った。
「一生会わない奴がいっぱいいるんだろうな」
そんなことを考えながら沢山の同級生と写真を撮った。
「吉田君、一緒に写真撮ってくれる?」
話したことさえない大人しい女子が二人でやってきた。
「ええよ。」
特になんてこともなくそう答えた。
彼女らは私を促して教室から少し離れたところに行った。
そこには酒田さんがいた。
みんなで撮るのではなくて酒田さんと二人での写真だった。
微妙に距離を置いてポケットに手を突っ込んでぎこちなく微笑む俺がいる。
ニコニコした笑顔の酒田さんは後輩から貰った小さな花束を持っている。
何十年も経った今でも家のどこかにそんな写真はあるはずだ。
「これ、もらって。」
酒田さんから何かを渡された。
家に帰ってから開けてみるとチョコレートだった。
海賊ゲームの様な器にウイスキーボンボンが入っていた。
そこにはカードが添えてあった。
『10日遅れのチョコレートですが食べて下さい。』
そして短い詩が書いてあった。
窓の外の冷たそうな月を見てあなたを想う、といった内容だった。
『この人は頭ええなー』とバカみたいに思ったのが第一印象。
『お父さんが亡くなるってどんなにつらいんだろう。
そんなときも俺の事を考えていてくれたんだろうな。』
そんな風に思うと感動した。
もう会う機会はないのでお礼の電話をした。何を言って良いかわからくて、思いつきで「京都の嵐山に一緒に行こう」と誘った。
少しだけ口紅を付けてイヤリングをして来た。高校生の時からすれば「さすが社会人」という感じだった。
竹の中の小路でイヤリングが取れて笑いながら一緒に拾った。誰がどこへ進むといったクラスメイトの話題しか話すことがなかった。同じクラスにいたがほとんど接点がなかったので盛り上がる話しが出来なかった。
恋に発展することはなかった。何故2回目がなかったのかさえも覚えていない。
高校の卒業式はバレンタインの10日後で覚えやすいこともありこの時のことはよく覚えている。

2025年02月18日
十二天の森の伐採

散歩ルートに十二天の森を抜けるものがある。
十二天の森は住宅地にありながら自然がそのまま残っている貴重な森だそうで駒ヶ根市や住民が管理して、憩いの場となっている。
それがこの冬はずっと立ち入り禁止になっていた。
森林伐採作業と書いてあった。
チェーンソーで木を切る音がずっとしていた…
先日ようやく終わったようだ。
伐採と言っても全部切るのではなくてごく一部だ。
遊歩道はスッキリとして歩きやすい。
冬で葉っぱがない事もあるが随分と明るい。
あちこちに薪が積んである。
『持って帰るか?』
うちは団地だからいらないけど貧乏性か?
自然の森なのに切っても良いのか?
薪に何か貼っている。
ならの木を食う虫を退治する為に伐採して乾燥しているから触るな、と書いてある。
『なるほど』それなら仕方ないか。
駐車場とトイレがある。大きさは近くの駒工と変わらないだろう。
クマはきっといない。
歩いている人は時々しかいない。
2025年02月17日
懇談会

吉田塾の本年度2回目の懇談会をした。
私は誰かの為に何かをやるというのは苦手で
自分の為になることをやる方が性に合っている。
吉田塾もそうだ。
「安くてしっかりやってくれてありがとう」と
褒めてもらえると嬉しいが自分のためなので褒めるほどのものではない。
お金を頂いて楽しみや生き甲斐を貰えて若いエキスまで貰えている。(変な意味ではありません)
懇談会も自分のためだ。
『親ってこんなことを考えているんだな』
がわかると
『それならこういう塾にしよう』と思う。
自分のやり方の確認になる。
塾に来てくれるのが一番の応援で、懇談会や歩く会などのイベントに来てくれると私を応援してくれていると思えてさらに嬉しい。
こうして書いているブログを読んでくれるのも応援だ。
懇談会で近い距離で直接の声を聞くとよりホンネが聞けて心に響いてくる。
前回も前々回も15人くらいと大勢来てくれてとても嬉しかった。
今回は半分くらいの人数で締め切ったが一人一人の時間が増えてさらにホンネが聞けた様に思う。
普段入ることがない塾の中を見てもらい様子を伝える事と、自分の気になる事を共有し他の人の声を聞くのは意義がある。
親と子どもと私の間がスムーズになる。
人と人との関わりが塾だ。
「先生」と呼ばれて怖がられるのも学習塾には必要かも知れない。
「吉田さん」と呼ばれる親戚のおじさんの様な距離感もさらに良い。
「先生」なんて孤独な人間への呼び方だ。
あまり好きではない。
俺ってけっこう寂しがり屋なんだ。(笑)
懇談会に来ていない人との距離も近くして卒業後も「吉田さん」でいられるとやり続ける力になる。
2025年02月16日
吉田塾じゃ点数は増えない!

遥か昔の中学2年生の時のことだ。
「家で『勉強しなさい』って言われない人は手を上げてください」と担任が言った。
クラスの中で手を上げたのは私と私よりも点数の良い友人との2人だけだった。
テスト前にはその友人とよく遊んだ。
「みんなは塾やテスト勉強で忙しいからな」と2人で遊んだ。
「塾って何をしてるんやろ?」
2人でよくそんな話しをした。
クラスメイトをバカにしているのではなくて本当にそう思った。
学校の授業中に「ボーッ」としているのに家で勉強したり塾に行くクラスメイト達が理解出来なかった。
その友人は随分前に裁判官になった。
この経験があるので塾じゃ点数は増えないと思っている。
それでは何故塾をやるのか?
「向き合うきっかけになるから」だろう。
学校の勉強よりも大切なことはあると思いが、それでも中学生にとっては目を背けてはいけないことだし、家のことや将来のことも含めて「向き合うきっかけ」にはなっているのは沢山の生徒と接していてわかることだ。
出来れば点数を増やして上げたい。
自分の点数なら自分で上げるが他人の点数を上げるのは無理だ。
上げられるのはその人だけだ。
塾に週三で来たとしても自宅や学校での時間の方がずっと多い。
学校の授業中に理解出来ないところを作ってはいけない。
解らなければ質問するとか必死で教科書を読むとかしてその場で何とかしようよ。積み残しを作るな。
中学生とはいえ勉強歴は10年になる。
その積み重ねで今の成績がある。
仮に自宅や学校での態度を最高にしたとしても10年の積み重ねの差は幾らも埋まらない。
その差がテストの点数に表れる。
最高にしたとしても点数に表れるのは時間がかかる。
そもそも最高に出来る人はとても少ない。
ちょいとやったくらいでは差はほとんど埋まらない。
親から見ると「頑張っている」と感じても学校でも自宅でもまだまだその差を埋めるほどではないから点数が増えないのだ。
親はそのことをわかって子どもと接すると少しだけ後押しになる。理解出来ずに接すると子どもにはマイナスになる。
吉田塾に来たからって点数は増えない。
自宅と学校で「ボーッ」としていないか。
「増えない」と嘆くのなら増える様にやるしかない。
簡単なことじゃないよ。
でも続けていると絶対に増えるよ。
そのことを学んだら吉田塾に来た意味があるので絶対に結果を出せ!
せめて過去問題集くらいは全部やれ!
2025年02月15日
高校受験の最大の敵

ゲーム、眠気、スポーツ、テレビ、マンガ、音楽、スマホ、
高校受験の妨げになるものは色々ある。
最大の敵は「恋」だろう。
バレンタインの日を前にそわそわしているわが子は受験勉強どころではない。
部活動を引退して高校受験という現実にみんなが向き合う時期に突然恋をしてしまう中学生が少なくない。
やましい気持ちがあるのか親はもちろん友人にも秘密にしている。
学校帰りの途中で示し合わせて、神社の裏かなんかで何しとんねん?
「今日は塾だ、ウゼー」とギリギリに家に戻る。
夜遅くまでスマホであれこれとやり取りをする。
「同じ高校へ行こう」
絶対にやめた方が良い約束をしてしまう。
片方の子がレベルを下げて受験をする事に納得いかない親とは大喧嘩だ。
「もう高校なんか行かない」と言いだす始末だ。
わが子の点数が急に下がった人は疑ってみると良い。
恋と受験勉強の両立が出来る中学生なんてほとんどいない。
現実逃避の恋愛ごっこの場合が多いが本人たちはそんな風には思ってないから厄介だ。
最悪なのが受験目前での破綻だ。
「放っておいて」と部屋にこもる。
『受験勉強の過度なストレスだろうか』
と親は思うが受験勉強どころではない。
高校生になっても続くケースはあまりないのでここは受験勉強に集中して「花の高校生デビュー」で素敵な自分と素敵な誰かの出会いを楽しみにするのが賢明だろう。
2025年02月14日
20㌔のお散歩



この時期は真夏よりは歩きやすい。
飲み物がなくても歩くことが出来る。
山がきれいなので歩いていて気持ちが良い。
田畑の周りを焼いている人があちこちでいて煙たい。
アスファルトではない道を歩く場合は夏場は草が多くて大変だがこうして焼いていてくれると歩きやすい。
自宅から飯島の高速道路下を歩いて七久保の道の駅に立ち寄った。本郷へ下りる急な斜面は日陰に雪が凍っていて歩きにくい。
『ここで滑って転んでケガをしたらブサイクだわ』と小股で慎重に歩いた。
バイパスに出ると速度を上げて一気に歩く。
自分では高速道路を歩いている気分だ。
上りの橋が幾つもあり適度な運動になる。
真っ黒な雲が増えてきた。
雪なら良いがそれほど寒くないので雨が降るかも知れない。
急いで歩く。
夏の暑い時にシルバーの皆さんがアスファルトに這いつくばって草刈りをしていたので街路樹が美しい。
駒ヶ根に入ると街路樹よりも草の方が生い茂っていて歩きにくい。
3年前に売りに出ていた中古住宅はまだそのまま残っている。売れずに更地になっているところもある。
畑作業や庭いじりで外に出ている人はほとんどいない。
車は走っているが生身の人間は自分しかいない様な気さえする。
20㌔歩いただけなのに疲れる。
四国お遍路の時は毎日30㌔とか40㌔を歩いた。
身体は眠たいが足が疲れて夜も寝られなかったくらい疲れていたか。
歩くしかなかった。
歩いていると沢山時間があるので色んなことを考えて色んなことを思い出す。
2025年02月13日
語学教室と学習塾の共通点

ネパール語2回目の授業が海外協力隊訓練所であった。
ネパール人の先生は海外協力隊で40年以上日本人に教えている人だ。
長年ネパール語を教える仕事をしている専門家だ。
ネパール語だけでなく教え方から学ぶべきことは多い。
「単語帳を全て覚えている人でもいざ会話を始めると出てこないものだ。」
「代表的な文章を20回以上実際に使って自分のものにして、少しずつ単語を入れ替えて使える文章を増やす」
こんな話しをしてくれた。
『なるほど』と思った。
学習塾でもそうだ。普通の公立高校を目指す人達の学習塾だ。
特別なひらめきや難問を解くテクニックは必要ではない。
教科書の内容を答案用紙に書けると良い。
基本がとても大事だ。
私がその為に出来る事は何か?
学校で習う内容の全てを塾で教え直すのは無理だ。
教えたとしても身に付くものではない。
教科書の内容を答案用紙に書ける様にする為にそれをやる気持ちを作る環境を提供することだ。
「学校の問題集はやったので他のを買っても良いですか?」
学校の問題集をやったのに点数が低いのでよくするために応用の問題集を買うらしい。
自分がそれが良いと思うならやれば良いが、きっと上手くいかない。
テストの点数が低いのに応用問題は解けない。
基礎の問題集をやったのに点数が低すぎないか?
応用問題は少ししか出ない。
基礎のない人に応用を教えても理解出来ない。
そもそも覚えるべきことを覚えていない。
だいたいは応用問題集も途中で嫌になってやめてしまう。
語学を学ぶ時にテキストだけで学ぼうとするとよく使う文章も使わない文章も同様に学ぼうとする結果、よく使う文章が使えないことが多い。
教科書の全てを使える様にすると書いたが使う練習が必要だ。
過去問題集を繰り返して教科書の知識を使える様に練習しないといけない。
入試過去問題と学校のテストを繰り返してまた教科書に戻る。教科書とそれに準じた学校の問題集を使うとやりやすい。
語学教室と学習塾は相違点もあれば共通点もある。
ネパール語を学びながら語学教室の先輩の教え方から学ぶことは多い。
次の教室ではホンモノの大使が来てくれるそうだ。
2025年02月12日
中学生が株を買う

中学生が株を買っていた。
駒ヶ根東中学だったと思う。
社会科の授業でやっていた。
随分昔のことだ。
実際にお金を使うのではなくて「ごっこ」をしていた。
各自銘柄を選んで買い、新聞で儲かった金額を競うというものだった。
「それって面白い?」
学校の授業期間程度の短期での上がり下がりは大してないだろう。
ダイナミックな日々の動きはない。
何よりも自分のお金で買わなければ「どうでも良い」ということになる。
余剰資金で長期保有で分散投資をすれば社会の動きに合わせて上がり下がりをする。
私が初めて買った頃は今と同じくらいの株価だったがその後は四分の一くらいまで下がった。
そして元に戻った。
日経平均という主な株の価格の平均値のことだ。
今も幾らも増えてない。
減った時に売らなくて良かった。
大阪の心斎橋に職場があった。
グリコの看板が有名な道頓堀の近くだが大阪のオフィス街でもあった。
証券会社の大きなオフィスの前には競馬場の様なやや胡散臭いおじさん達が新聞や鉛筆を持って掲示板の数字を見つめていた…
業種は少し違うが金融会社にいたので勉強の1つとして先に挙げた株取引の原則も知っていた。
『それなら』と思って少しだけ買おうと窓口に行った。半分は好奇心からだ。
少ししかない余剰資金を窓口のお姉さんのアドバイスのもとで3つの会社に分散投資をした。
その内の1つは今も持っていて随分と増えている。
しかしあとの2つは途中で売った。
随分と減ったのだと記憶している。
細かく株価を見て一喜一憂せずに放っておくのが良いかも知れない。
儲かる損するということだけではなくて『この会社を応援したいから投資する』と考えた方が良いかも知れない。
仮想売買していた生徒も立派な大人になり投資をして世の中の応援をしている人もいるだろう。
2025年02月11日
吉田塾倒産の心配

ラーメン屋の倒産件数が多いそうだ。
材料費、光熱費、人件費、家賃、ラーメン屋にはゴミ処分のお金も高くかかるらしい。
そうした費用の全てを値上げに反映させることが出来なくて利益を圧迫する。
値上げすると客足が鈍くなりさらに利益が減る。
その辺りと人手不足が主な理由らしい。
同時に学習塾の倒産も去年は最も多かった。
事情はラーメン屋と似ていて、少子化もあるそうだ。
コロナ禍が始まった年に駒ヶ根でも何件かの学習塾がなくなった。
オーナーの年齢もあってやめたのもある。
儲からないことの他に、年齢ギャップもある。
生徒やその親と自分との年齢が離れてくると考え方や態度が違ってきて嫌になることが増えてくる。
さて吉田塾だ。
あと1ヶ月で生徒は誰もいなくなる。
収入はなくなる。
新年度に誰かが来てくれるかどうかはわからない。
今年は沢山来てくれた。
沢山集められたとも言える。
しかし来年度に来てくれる保証はない。
何年やっていてもなかなかの不安だ。
料金は安くしている。
人は雇ってはいない。
家賃は高くない。
光熱費は少し上がっている。
1000円を値上げする?
1200円?
毎回小銭だらけ?
お釣りも出す?
無理だ。
利益を確保するには生徒の数が必要だ。
生徒が来なくなれば倒産であり、引退だな。
2025年02月10日
高校入試の面接試験は無いのが良い

長野県の公立高校入試については面接試験入試は無いのが良い。
そう思う理由が幾つかある。
まず思う事は「出来レース」というのだろうか、受ける前からある程度の結果は決まっているからだ。
面接と内申点との両方を判断材料にするという事だが、過去の私の塾の生徒では内申点の上から受かっている。
「学力だけではなくて意欲や様々な能力を判断材料にする」為の面接らしいが内申点の低い生徒で受かった生徒はいなかった。高い生徒で落ちた生徒はいなかった。
専門学科の高校でも英語も数学もあり、学力が極端に低いと授業を進めにくいだろう。
ボーダーラインの生徒なら面接で合否が決まるので面接が全く意味がないとは言わないが内申点が低いのなら受けても無理だ。
中学の教師には「内申点で無理なら受けないのが良い」という人もいれば「経験だから受けろ」「自分で決めろ」という人もいる。
受けるエネルギーと落ちた時のダメージを考えると内申点が足りていないのなら受けないのが良い。
2つ目の理由だが、あの程度の面接で判断出来ないだろう。誰が作ったのかわからない志望動機や回答を鵜呑みにして生徒を選ぶ判断材料に出来るのだろうか。
高校教師は人事課ではないので面接の専門家ではない。
もし私が高校教師だとしても僅かな時間で一生懸命に自分の事を語る中学生の合否を決めるのは忍びないので内申点に頼って判断すると思う。
もし面接を判断材料にするのなら何回かの面接を、違う人が行って判断するしかない。
3つ目の理由だが、中学は義務教育だ。しっかり勉強したかどうかを見極めて合否を決めるべきだ。
義務教育は大人になる上で必要な学力を付けるものなのでそれをみるのが学力による高校入試であり、受験に向けての勉強をしっかりすることで義務教育の集大成になる。
面接試験で受かってしまえば勉強が疎かになる。
「サッカーが上手い」「将来の夢」などで判断するのは義務教育のはふさわしくない。
私の息子のうちの2人はサッカーで高校へ行った。
勉強はしなかった。親は私なのに。
最後だが受験は3月に一斉にするべきだ。
私立高校では12月に決まった生徒もいた。
1月には私立高校の多くが決まる。
その後の学校ではどう過ごすのか?
前期試験の不合格者にだけもう一度のチャンスがあるのは不公平だ。もう一度勉強するのもキツイ。
しつこいが中学は義務教育だ。
卒業を目指してしっかりと勉強しようよ。
間もなく公立高校の前期試験の合格者が出る。
私立高校の合格者もいる。
「受かっても喜ばない様に。」と学校で言われる事が多い。
「受かった事を他言しないように」と言われた生徒もいる。
その人は合格の喜びを味わう事が一生ないかも知れない。
中学生が自分をさらけ出して語り、不合格にされれば自己を否定された様に感じて想像以上に落ち込む。
受かったクラスメイトが喜ばないのが却って落ち込みを酷くする。
面接試験そのものが中学生にはいらないがやるとしても3月にやって欲しい。
受験生はそろそろ家を出た頃か。
受ける以上は思い切り緊張して沢山喋って欲しい。
2025年02月09日
波止場の亡霊

小学4年生の頃、市内のショッピングセンターで古本市があった。
カゴの中に雑然と並んでいる本を手に取って眺めていた。
ボロボロの表紙の「日本の幽霊」を自然に取っていた。
色褪せた紙に日本各地の幽霊話しが載っていてワクワクしながら読んでいた。
あるページに手が止まった。
愛媛のおじいちゃんの家の話しが載っていたのだ。
それまで活字で見たことのない小さくて何もない町だ。
それなのに突然幽霊話しが、しかも古本に載っていたので驚いた。
港の桟橋で赤ちゃんの泣き声がするという話しだ。
小さな町には桟橋は1つしかないのできっとあの桟橋だ。
夏休み中は毎日朝と夜に私が釣りをしていたあの桟橋だ。
思い起こすと1人っきりで釣りをしていた事も多かった。
全く音がなくて、灯りは灯台とラジオ店の看板と幾つかの水銀燈しかなくて、かなり寂しい事を思い出した。
海で亡くなった赤ちゃんの泣き声がするというのだ。
怖いというのと切ないというのでとても嫌な気持ちになった。
家に帰って母親にその話しをした。
「そんな話しは知らん。」
一言で却下されたが本当になかった話しなのかは疑問だった。
夏休みになってそこへ行ったらおじいちゃんかひいじいちゃんに聞いてみようと思って忘れてしまった。
おじいちゃん達は亡くなり、波止場はすっかり埋め立てられてしまった。
母は覚えているはずもない。
2025年02月08日
大雪

写真は我が家の団地だ。
今日の写真ではなくて21年前だ。
「駒ヶ根はそれほど雪は降りませんよ」
市役所でそう言われた。
冬の信州は白馬や野沢にスキーに行った事しかないので雪が心配で移住を躊躇していた。
移住先に駒ヶ根を選んだのは雪が少なくそれほど寒くないという話しを信じたからだ。
移住した最初の冬から大雪だった。
「私は生まれて40年以上経ってますがこんなに積もるのは初めてかも知れません」と近所の人に言われて
「俺はラッキーなのかアンラッキーなのか?」と笑いたくなった。
それから数年間は毎年写真の様に沢山積もった。
かまくらを作ったり、雪で滑り台を作ったり、大きな坂道を探してソリで滑り降りたり、雪玉を投げ合ったり、雪だるまを作ったり、スキーをしたり、駒ヶ根でも冬の信州を楽しむ事が出来た。
幼い子ども達にとっては素晴らしい思い出だっただろう。
子どもがいなくなり、雪は私にとってはやっかいな存在になった今は幾らも積もらない。
今朝でさえ薄っすらと積もっているだけで雪かきをするほどではない。
私はなんとラッキーだろう。
雪に苦しめられている皆さんには申し訳ないがそう思う。
2025年02月07日
ヒトは何故大学へ行きたいのか?

「良い学校へ行き、良い会社へ入ると良い生活が出来る」
私らの頃はそう言われた。
就職活動は4年生になってからだった。
今はどうなんだろう?
良い会社って?
転職する人が多い。
就職活動は2年生からスタートするらしい。
『大学は就職活動を有利に進める為に行くのか?』
『勉強をしたいから行くんじゃないのか?』
私の生徒だった中学生の頃には全く勉強をせずに、ひどい点数を取っていた人も大学へ行く。
『あんなに勉強がキライだったのに』
都会の大学へ行き、都会で就職して、都会で生活するのは辛いよ。都会にいた頃の俺のような意地悪な人に囲まれるよ。
「就職します」と言う高校生に担任教師は「大学に行かないと勿体ないよ」と言う。
高卒で地元就職するのは勿体ないらしい。
高卒で地元就職した人はほとんどがすぐに車を買う。
そしてしばらくは自宅に住む。
お金が貯まり生活の苦労がなくて自由を謳歌している。
都会ほど給料が多くはないものの生活費は圧倒的に少ない。
そして結婚が早くてすぐに親になる。
あっという間に3人くらいの子どもがいる親になる。
そしてそして家を建てる。
「オレ、大学出てんだけど、いまだに築50年の団地に住んでいる。」
良い生活。が目当てなら都会の大学へ行くのは正しいのか考えた方が良い。
専門的な勉強がしたいのなら行くと良い。
大学に行って資格を取らないと就けない仕事が多いのも間違いだ。
高卒でその仕事に就き、見習いの様な立場で働きながら資格を取るといった形にならないか。
人手不足で外国人に助けてもらわないと成り立たない世の中になりつつある一方で半分大学生で半分バイトの様な人が多い。
人手不足や少子化や過疎化といった壊滅的な状況の解決にも高卒地元就職の人が増えると良い。
「本当に勉強したい人だけが大学生になると良い」
2025年02月06日
ネパール語

ネパール語講座に初めて参加した。
ネパール人の先生は30年以上JICAの訓練所で日本人に教えていた超ベテランで私の古い知人でもある。
「語学を学ぶうちの20%はカンである」と話してくれた。
私もそう思う。
単語や文法を覚えてそれを繰り返して慣れることが絶対に必要だが、それに加えてカンが必要だ。
カンはひらめきと言えるかも知れない。
我々日本人が日本語を覚えた時にもこのカンを生かしたはずだ。
「私は寿司を食べる」という文を学んだら「寿司」の部分を「カレー」や「りんご」に替える事が出来るし、「私は」の部分を「彼は」とか「吉田さんは」とかに替える事が出来る。
こうして書けば『当たり前やろ?』と思える。
しかしこうしたカンが働かず、「私は寿司を食べる」から発展しない人が多い。
そしてもう一つ、今朝起きて思い起こすと昨夜覚えた事を忘れてしまっている。
『俺って頭が悪いわ』と思う。
強引に中学生の勉強に話しを移す。
カンが働くかどうか?
先生から教えて貰った事しか出来ないと思い込んでいるとカンは働かない。『何とかして答えを出そう』と強い気持ちを持てば働きやすい。
長野県の高校入試はこのカンで解ける問題が多い。
教科書に載っている内容に少しカンを働かせて考えると簡単に解ける問題が多い。
そして一度やっただけで出来る様になるはずはない。
忘れてしまうと取り返すのが大変なので忘れる前に覚えてしまうと良い。
『何とか答えを絞り出そう』と思って解答する練習が必要だが、そうした生徒が減っている。解るか解らないかのどちらかしかない生徒が多い。
以前はめちゃくちゃな解答が多かったのは必死で答えを出そうとカンを働かせるからだろう。
学んだら覚えて使える様にする意識が大事だ。
先生に報いるためにも少し勉強しよう。
それにしてもネパール語の文字は読めない。
2025年02月05日
飯田の丘の上の散歩
飯田市内を散歩した。
月曜日なので動物園や博物館は休みなのが残念。
動物園の隣りの市営駐車場に車を置いて歩き始める。
扇町公園から崖の中段を東へ歩く。

追手町小学校前の飯田城赤門、長姫のヒガンザクラを見る。
長姫神社の隣りの三宜亭の玄関の脇の小道を抜けると写真の様な廃れた登山道の様な道を下る。

水の手の信号辺りで丘をぐるりと周る様に写真の旧測候所を目指して上る。そこには小さな公園とトイレがあるので休憩出来る。

春草通りから菱田春草生誕地公園から写真のくつわ小路を通る。

中央公園のそばの上海楼のラーメンを食べたかったが時間が早いので駅に向かう。
焼肉研究所に立ち寄り丸山食品でお肉を買って飯田駅へ行く。
来る度に賑わいが少なくなっているのは気のせいであって欲しい。丘の上結いスクエアという新たなセンターはキレイだ。
上海楼は12時過ぎだったので何とか待たずに入れた。ラーメンの並でもかなり多いのにギョウザも美味いので満腹になる。写真が下手で美味しそうに見えないが美味しかったです。お店の方、下手な写真ですみません。

あちこちに和菓子屋さんや喫茶店があるので次回は立ち寄りたい。
この一周は6㌔ほどしかないので気楽に歩く事が出来る。
月曜日なので動物園や博物館は休みなのが残念。
動物園の隣りの市営駐車場に車を置いて歩き始める。
扇町公園から崖の中段を東へ歩く。

追手町小学校前の飯田城赤門、長姫のヒガンザクラを見る。
長姫神社の隣りの三宜亭の玄関の脇の小道を抜けると写真の様な廃れた登山道の様な道を下る。

水の手の信号辺りで丘をぐるりと周る様に写真の旧測候所を目指して上る。そこには小さな公園とトイレがあるので休憩出来る。

春草通りから菱田春草生誕地公園から写真のくつわ小路を通る。

中央公園のそばの上海楼のラーメンを食べたかったが時間が早いので駅に向かう。
焼肉研究所に立ち寄り丸山食品でお肉を買って飯田駅へ行く。
来る度に賑わいが少なくなっているのは気のせいであって欲しい。丘の上結いスクエアという新たなセンターはキレイだ。
上海楼は12時過ぎだったので何とか待たずに入れた。ラーメンの並でもかなり多いのにギョウザも美味いので満腹になる。写真が下手で美味しそうに見えないが美味しかったです。お店の方、下手な写真ですみません。

あちこちに和菓子屋さんや喫茶店があるので次回は立ち寄りたい。
この一周は6㌔ほどしかないので気楽に歩く事が出来る。
2025年02月04日
卵の値上げ

卵10個のパックが300円になると買う勇気がなくなりそうだ。
少し前は100円台だった。
スーパーの特売なんかがあると80円とかで売っていた。
「物価の優等生」と言われるほど安くて安定していた。
美味しくて栄養があってボリュームがある卵が1つ10円程度なんて農家と鶏に申し訳ないと思った。
私が子どもの頃は近所の祖父の家で鶏を飼っていたので卵を貰う事もあった。
高くなった今よりもさらに貴重な存在だった。
市場ではもみ殻の中に並べられた卵は1つ30円でばら売りだった。
食べるのは1日1つと決まっていた。
祖父の家で食べる「卵かけご飯」はなかなかのごちそうだった。
『あの頃に戻っただけだ』と思えば良い。
収入が今よりもずっと少なかった当時の1つ30円と比べるとどうという事はない。
商売で卵を使うわけではない私は1日に2つか3つ程度しか食べない。10円が30円になっても大した事はない。
食材が少し高くなっても仕方のないものは仕方がない。
節約するなら他ですれば良い。
それよりも鳥インフルエンザって何?
昔はそんなのあったの?
殺処分って?
鶏が気の毒で申し訳ない。
人間がそんな事をしても良いものだろうか。
2025年02月03日
なんてったって中学生

いよいよ2月となり高校入試はあと1ヶ月ちょっとで終わる。
ラストスパートで脇目も振らずガンガン勉強しているはずだ。
しかしなんてったって中学生だ。
なかなかそうはならない。
うさぎと亀のうさぎほど速く走れるわけではないにもかかわらずお昼寝をしてしまっている。
まるで亀がお昼寝をしている様でさえある。
「うちのコは頑張っているのに成績が上がらないんです」という親に限って「家で全然勉強しないんです」と突然逆の事を言い出す。
『子が子なら親も親だ』と思う。
継続しないといけない。
やったものを身につける前にやめてしまうからやったものが無になる。
『アホちゃう?』と思う。
私は勉強がキライだったのでムダにやりたくなかった。
でも良い点数を取って自慢したかった。
その為にはやったものを身につけるようにやる様にはしていた。
うさぎと亀の話しに戻ろう。
塾の皆さんは誰もうさぎではなくて亀だ。
亀と亀の競争だ。
バカにしているのではなくて実際にそうだ。
私ら大人もそうだ。
ほとんどの人は亀だ。
たいして個人差はない。
亀である事を知って休まずゆっくりとでも続けるかお昼寝をするか程度で勝負が決まる。
あと1ヶ月して春になったら死ぬほど寝たらエエ。
ソレまでは休むな!
2025年02月02日
飯田

今日は飯田でのんびりしている。
駒ヶ根からは車で30分か40分なので泊まりで来る所ではないが気分転換でありお楽しみである。
飯田は人口が10万人を切っているそうで小さな町だ。
しかし城下町であり南信州の中心都市として栄えた町なのであちこちにその面影があり面白い。
写真の餅屋は古い佇まいだがひっきりなしに客が来て一本110円のみたらしを買っていく。団子ではなくて餅だ。
飯田駅から城趾辺りの旧市街は昭和そのものだ。
市役所の前には小さな動物園もある。
息子達が幼い頃に来たのが懐かしい。
夏は暑く冬は寒く坂が多くて住みにくい町だよ、
と言ってくれたのは案内所の女性だった。
町を愛するが故に『それでも私は飯田が好きなのよ』との気持ちが込められている様に感じた。
市の中心はバイパス沿いの大型店が並ぶエリアに移ったのかも知れない。
さらにこの飯田の郊外にリニアの駅が出来る。
旧市街は今以上に昔の町になってしまうのかも知れない。
『それでも私は飯田が好きなのよ』
2025年02月01日
ヤクザのOB会に参加していた子どもの頃

小学5年生の頃は魚釣りが大好きだった。
学校が休みの日は朝早くからあちこちの池や川に釣りに行った。
学校がある日は時間があまりないがひとが釣っているのを見に行った。
淀川から続く池に行くといつも大人が釣りをしていたのでそれを眺めたり大人と喋ったりした。
「釣れますか?」と話しかけるのが常だった。
「まあまあやな」と言いながら魚が入ったビクと呼ばれる網を水中から上げて見せてくれる人が多かった。
その池に行くといつも赤い帽子の人がいた。
時には数人が同じ赤い帽子を被って釣りをしていた。
私はその赤い帽子の人と仲良くなった。
「ここはな、深さ3メートルあるんや。どの深さで釣れるかを見つけるのが難しいねん。」
「その日によって違うん?」
「そうや、水温とか天気とか季節とか時間とかでちゃうねん。」
「へ〜難しいんやな」
そんなやり取りをして日が暮れそうになるまで眺めていた。
赤い帽子の人は何人かいたが誰が誰なのかはわからなかった。時には3人4人、時には1人だったがいつも同じ辺りで釣っていたので赤い帽子を見つけると喋りかけた。
どのおっちゃんも相手をしてくれた。
おっちゃんと言っても当時の父親よりもずっと年上で祖父くらいの年齢だったかも知れない。
「しょんべんしてくるから釣っててくれるか?」
そう言われてとても緊張した。
釣り道具屋で見る一本で1万円くらいする浮きと一本で10万円くらいする竿を使っていたからだ。
おっちゃん達は石を組んで足場を造りその上に椅子を置いて釣っていた。
そこに座るととても高くて池に突き出していた。
その上で高い竿と浮きを振り回すのは緊張した。
『底に引っ掛けて浮きを流したらどうしよう?』
『引っ掛かって竿が折れたら逃げるか?』
それでも高級な釣り道具に触れてみたかった。
子どもが扱うには竿は長くてあかんかった。
自分とおっちゃんへの言い訳としてその事を使った。
2度ほど浮きを池に投げてそれでおしまいにした。
いつもの様に学校が終わって池に行ったら赤い帽子のおっちゃん達はいなかった。
池の端っこには赤い帽子ではないおっちゃんがいたのでその人の釣りを見た。
「釣れますか?」
「あかんわ」
「あそこへ行ったらええんとちゃいますか?」
そう言って赤い帽子のおっちゃんが造った足場を指差した。
「あそこでは釣られへん。あれはあの人らが造ったやつやからな。」
「いてへんからええんとちゃうの?」
「あの人らはヤクザのOBやから。」
「そうなん?俺、いつも喋ってるで。」
「知ってるよ、あんたは子どもやからな。」
俺はヤクザのOB会に参加していたわけだ。
『だから高級な釣り竿を持ってるんや。竿を折らんで良かったわ。』
それからはなんとなくその池には行かなくなった。
『中学生になったら勧誘されるかも知れん』と思ったからだ。
2025年01月31日
命の危険を感じた受験

息子の1人は富山の高校を受験する事になった。
赤穂中から他に受ける生徒はおらず準備から送迎まで全て私がやった。
前泊して受ける予定だったが前日は大雪警報が出ていた。高速道路と公共交通機関は止まる様だ。
『どうすんねん?』
147号線を白馬から小谷を抜けて日本海に出るか夏場にはよく通る木曽から安房トンネルを抜けて行くかのどっちかだ。どっちも通行止めになればどうしようもない。
安房トンネルを抜ける事にした。
権兵衛トンネルから木曽を抜けるが途中の境峠は標高が 1480メートルもある。1480って登山じゃん。峠の辺りは1メートル以上は積もっていたが降ってはなくて除雪されていた。急な下り坂は怖かったが何とか通り抜けて、再び上って安房トンネルを抜けた。奥飛騨温泉の辺りはずっと下り坂だが凍りではなくて雪なので意外と楽に通れた。上り下りを繰り返して広い国道41号線に出た。
『もう大丈夫』と思った。
しかしその辺りから横殴りの雪がドンドン降ってきた。激しい勢いだ。ホワイトアウトというやつだろう。
全てがボヤーっとした白で何も見えない。
風も強い。
広いはずの国道が自分が通る幅しかない。
路肩も脇道もチェーンを付ける為のスペースも何もない。
まるで白い溝の中を走っている様だ。
通る車はほとんどない。
いつもあおってくる大型トラックも追いかけて来ない。
たまに来る対向車は真正面から走ってくる。ぼんやりしたヘッドライトを見ながら『あのライトの少し左を通ろう』とするしかない。きっと相手も同じ様に考えているのだろう。止まる様なスピードで通り過ぎる。相手の運転手の顔さえ見えない。道路のセンターラインを挟んで通り過ぎているのか端っこなのかもわからない。
雪はさらに激しくなる。カーナビはあるがスマホはまだ持ってなかった。
情報のない中で通行止めになったら終わりなので行くしかない。そもそも戻れと言われても戻れない。下るしかない。
ワイパーに雪が凍りついて前がさらに見えなくなってきた。それでも車を止めるのは怖かった。
前がほとんど見えない道路に止めるのは怖い。
トンネルの中だけが見通しが良いがそこで止まって雪を落とすのも怖いのでやめた。
ビビりながら走っていると突然雪の壁に突っ込んでしまった。
スリップではなくて緩やかなカーブを直線だと思って突っ込んだ。
ボンネットが短い軽自動車だったので完全に雪の中に入った。ドアを開ける事さえも出来なくて恐怖を感じた。
『俺は死んでも息子は送り届けなくてはいけない。』
『でも俺が死んで息子を届けるってそんな状況はあるか?』一瞬で訳のわからない事を思うと開き直ったのか気合いが入った。
ギアをバックな入れると無事に下がることが出来た。
後ろは何も見えないのでバックをするのは恐怖だった。
「よっしゃ」気合いを入れた。
下がったついでに車を下りてワイパーに凍りついたものを落とした…幅が2メートルくらいになった国道のど真ん中でだ。突然前か後ろから車が来るかも知れない。
その時をピークとして徐々に雪は穏やかになった。
富山市内に入ると風も雪も止んでいて除雪がされていた。
生きてたどり着くことが出来て嬉しかった。
「絶対に受かれよ。もう冬には来たくないからな。」
息子にそう言った。
翌日の受験会場では保護者控え室で待っていた。
隣りにいた女性は地元の人だそうだが昨日の悪天候を41号線で長野県から来たと聞いて驚いていた。『41号線は通行止めだと思っていた。』そうだ。
20人の定員に50人が受験した。受験資格に内申点の下限があり息子はギリギリだったので受験生の中では一番下だという事だ。
面接で受からなければ筆記試験は無理だと思った。
筆記試験の過去問題を見たが息子が解けるレベルではない難しさだった。
その為、面接練習を徹底的にやった。
志望動機は2分以上準備した。普通は30秒程度だろう。
小学生の頃の思い出から将来の世界進出の夢までをストーリーにした。
何回も練習をして俳優の様に気持ちを込める様にした。
他の質問の準備も完璧だった。
一か八かの作戦だ。
幸い息子は合格してくれた。
今日は地元の伊那西高校の受験だ。
きっと皆さん緊張しているだろう。
一生の思い出になる。
悔いなく臨んで欲しい。