2022年01月17日
阪神淡路大震災の体験
1995年当時、私は東大阪市に住む会社員だった。
東大阪の営業所から神戸に近い西宮の営業所への転勤を指示されていた。本来は有無を言わさずの承諾だったが、何故か私は引き伸ばしていた。
本社の部長から電話で何度も「早くしろ」と言われた。
渋々住む所を探しに行った。
宝塚線沿線の急な坂道にある景色の良いマンションが気に入った。
ちょっとした崖っぷちに建ち、古いが眺めが良かった。
『ここに決めるかな?』
そう思ったが、決められずにいた。
モタモタしていたある日不動産会社から電話があり催促された。
「明日会社で正式な転勤の日を聞いてから連絡します。」
その明日というのが1月17日だった。
地震はかなり揺れた。
私は平屋に住んでいたためか、周りより揺れが少なかったのかも知れない。
会社は近いのでチャリで通っていた。
近所の家の壁が崩れて車のガラスが割れていた。
社員はほとんどが遅れてきた。
渋滞のため、午後3時に着いて、そのまま帰った社員もいた。
後日談だ。私の同期社員は出張から戻って来たタイミングだった。フェリーで大阪についたものの接岸出来ずにずっと船内にいた。私の近所のマンションには奥さんと産まれて間もない赤ちゃんがいた。奥さんはベッドからおりて布団の上で赤ちゃんにおっぱいをやっていた。
そこに地震が来て、タンスが倒れてきた。
タンスはベッドに倒れて来て、奥さんと赤ちゃんは隙間にいて助かったらしい。
いつもは赤ちゃんをベッドに抱いておっぱいをあげていたらしい。
同期社員が家族の所に着いたのは午後になってからで、会った時は涙がこぼれて言葉が出なかったらしい。
外見は大したことが無いようでもタンスやテレビが飛び、惨事に鳴った家が多かった。
翌日は命令で西宮営業所の支援に向かわされた。
道路は渋滞で西宮まで5時間かかった。
阪急電車をまたぐ高架は先が落ちていて無かった。
西宮に近づくと外見が壊れた建物が増えた。
火が出ている所もあった。
道路にも色んなものが横たわっていて、
さらに渋滞が酷くなっていた。
余震が何度かあった。
高架で止まるととても怖かった。
間もなく産まれる赤ちゃんの顔を見る事も無く死ななくてはならないのかと思った。
後ろの車、対向車、みんな疲れ切っていた。
俺は命をかけて行く必要があるのか?
大阪にいる部長や本社にいる社長はこの状況を知らないからそんな命令をするんや、と憤った。
渋滞の列に並んだまま車をおりて用を足す男性が多かった。他の手段が無かった。
営業所は西宮病院のそばだったので常時救急車のサイレンが聞こえた。
あのサイレンは心にかなりのダメージを与えるという事を知った。
上司の指示で食料品を沢山積んで行った。
営業所近くの人にも配る様に指示されていた。
西宮営業所への指示は全て私からの口伝えだった。
入社間もない顔見知りの後輩社員は大怪我だった。
彼は10ヶ月入院し、そのまま退職したらしい。
後日談だが、木造アパートの2階で一人暮らしをしていて、地震の瞬間気を失ったらしい。
がれきの中で気が付いた。
あちこちが痛くて声が出ない。
人の声が聞こえて、『助かった』と思った瞬間、
「ガス漏れしてるぞ」そう聞こえて、誰もいなくなった。
涙が止まらないまま、また気を失ったか、眠ったらしい。
営業所の人が彼を助け出して病院へ運んだ。
気が付くとベッドにいたらしい。
気が付くまで何日もかかったらしい。
隣の部屋の人は亡くなった。
アパートの場所は瓦や柱、壁、家財道具が山になっていて彼の思い出を探してやる事が出来なかった。
神戸にも支店があったが行くことはおろか、連絡がつかない。
西宮より被害が大きいと思われたが社員の安否が確認出来たのはかなりあとで、人の往来で確認するしか無かった。
西宮でも道路の割れた所から水を汲んでいた。
救急車と消防車が対面して動けずにいた。
普通なら同じ方向へ進むのがこの車だ。
至る所から要請があったのだろう。
火災の横でも渋滞の列は続いていた。
あちこちに様々な貼り紙があった。
安否に関するものが多かった。
国道沿いの吉野家が開いていた。
国道の渋滞の列に車を置いたまま食べに行く人がいた。私の少し前の人が食べ終えて出て来ても渋滞の列はいくらも進んで無かった。
私も食べたかったが、東大阪で普通に生活が出来る私が在庫を減らすわけにはいかない。
翌日も私は西宮へ向かった。
大阪近辺には100人程の社員がいるのに何で俺なんや?マジメな社員では無かったので行かされたのか?
余震が怖かった。
わたしの母と同世代の女性社員がいて、その人のお母さんと連絡がつかないので、救助に行くのが私の任務だった。
西宮営業所の社員が芦屋のアパートからお母さんを助け出していた。
私が女性社員とお母さんを乗せて大阪に戻った。
いつもはよく喋るお局の様な女性社員が、「吉田さん、すみません。」とそれしか言わなかった。
私には間もなく初めての子どもが生まれると女性社員は知っていた。『何かあってお子さんに会えなくしてしまったらどうしよう?』そればかり考えていた、と後日話してくれた。
「トイレは大丈夫ですか?どこか探しましょうか?」
「大丈夫です。」
そう言って二人とも黙っていた。
真冬の時期だ。きっと辛かっただろう。
電話以外に通信手段が無かった。
こうして直接行くしか無かった。
結果としてその行動が渋滞を招き、
救急車や消防車の進路を妨げた。
私がその会社を辞める事になったきっかけになったのがこの時の体験だった様にも思う。
東大阪の営業所から神戸に近い西宮の営業所への転勤を指示されていた。本来は有無を言わさずの承諾だったが、何故か私は引き伸ばしていた。
本社の部長から電話で何度も「早くしろ」と言われた。
渋々住む所を探しに行った。
宝塚線沿線の急な坂道にある景色の良いマンションが気に入った。
ちょっとした崖っぷちに建ち、古いが眺めが良かった。
『ここに決めるかな?』
そう思ったが、決められずにいた。
モタモタしていたある日不動産会社から電話があり催促された。
「明日会社で正式な転勤の日を聞いてから連絡します。」
その明日というのが1月17日だった。
地震はかなり揺れた。
私は平屋に住んでいたためか、周りより揺れが少なかったのかも知れない。
会社は近いのでチャリで通っていた。
近所の家の壁が崩れて車のガラスが割れていた。
社員はほとんどが遅れてきた。
渋滞のため、午後3時に着いて、そのまま帰った社員もいた。
後日談だ。私の同期社員は出張から戻って来たタイミングだった。フェリーで大阪についたものの接岸出来ずにずっと船内にいた。私の近所のマンションには奥さんと産まれて間もない赤ちゃんがいた。奥さんはベッドからおりて布団の上で赤ちゃんにおっぱいをやっていた。
そこに地震が来て、タンスが倒れてきた。
タンスはベッドに倒れて来て、奥さんと赤ちゃんは隙間にいて助かったらしい。
いつもは赤ちゃんをベッドに抱いておっぱいをあげていたらしい。
同期社員が家族の所に着いたのは午後になってからで、会った時は涙がこぼれて言葉が出なかったらしい。
外見は大したことが無いようでもタンスやテレビが飛び、惨事に鳴った家が多かった。
翌日は命令で西宮営業所の支援に向かわされた。
道路は渋滞で西宮まで5時間かかった。
阪急電車をまたぐ高架は先が落ちていて無かった。
西宮に近づくと外見が壊れた建物が増えた。
火が出ている所もあった。
道路にも色んなものが横たわっていて、
さらに渋滞が酷くなっていた。
余震が何度かあった。
高架で止まるととても怖かった。
間もなく産まれる赤ちゃんの顔を見る事も無く死ななくてはならないのかと思った。
後ろの車、対向車、みんな疲れ切っていた。
俺は命をかけて行く必要があるのか?
大阪にいる部長や本社にいる社長はこの状況を知らないからそんな命令をするんや、と憤った。
渋滞の列に並んだまま車をおりて用を足す男性が多かった。他の手段が無かった。
営業所は西宮病院のそばだったので常時救急車のサイレンが聞こえた。
あのサイレンは心にかなりのダメージを与えるという事を知った。
上司の指示で食料品を沢山積んで行った。
営業所近くの人にも配る様に指示されていた。
西宮営業所への指示は全て私からの口伝えだった。
入社間もない顔見知りの後輩社員は大怪我だった。
彼は10ヶ月入院し、そのまま退職したらしい。
後日談だが、木造アパートの2階で一人暮らしをしていて、地震の瞬間気を失ったらしい。
がれきの中で気が付いた。
あちこちが痛くて声が出ない。
人の声が聞こえて、『助かった』と思った瞬間、
「ガス漏れしてるぞ」そう聞こえて、誰もいなくなった。
涙が止まらないまま、また気を失ったか、眠ったらしい。
営業所の人が彼を助け出して病院へ運んだ。
気が付くとベッドにいたらしい。
気が付くまで何日もかかったらしい。
隣の部屋の人は亡くなった。
アパートの場所は瓦や柱、壁、家財道具が山になっていて彼の思い出を探してやる事が出来なかった。
神戸にも支店があったが行くことはおろか、連絡がつかない。
西宮より被害が大きいと思われたが社員の安否が確認出来たのはかなりあとで、人の往来で確認するしか無かった。
西宮でも道路の割れた所から水を汲んでいた。
救急車と消防車が対面して動けずにいた。
普通なら同じ方向へ進むのがこの車だ。
至る所から要請があったのだろう。
火災の横でも渋滞の列は続いていた。
あちこちに様々な貼り紙があった。
安否に関するものが多かった。
国道沿いの吉野家が開いていた。
国道の渋滞の列に車を置いたまま食べに行く人がいた。私の少し前の人が食べ終えて出て来ても渋滞の列はいくらも進んで無かった。
私も食べたかったが、東大阪で普通に生活が出来る私が在庫を減らすわけにはいかない。
翌日も私は西宮へ向かった。
大阪近辺には100人程の社員がいるのに何で俺なんや?マジメな社員では無かったので行かされたのか?
余震が怖かった。
わたしの母と同世代の女性社員がいて、その人のお母さんと連絡がつかないので、救助に行くのが私の任務だった。
西宮営業所の社員が芦屋のアパートからお母さんを助け出していた。
私が女性社員とお母さんを乗せて大阪に戻った。
いつもはよく喋るお局の様な女性社員が、「吉田さん、すみません。」とそれしか言わなかった。
私には間もなく初めての子どもが生まれると女性社員は知っていた。『何かあってお子さんに会えなくしてしまったらどうしよう?』そればかり考えていた、と後日話してくれた。
「トイレは大丈夫ですか?どこか探しましょうか?」
「大丈夫です。」
そう言って二人とも黙っていた。
真冬の時期だ。きっと辛かっただろう。
電話以外に通信手段が無かった。
こうして直接行くしか無かった。
結果としてその行動が渋滞を招き、
救急車や消防車の進路を妨げた。
私がその会社を辞める事になったきっかけになったのがこの時の体験だった様にも思う。